【千利休の末裔が語る“いつも感じのいい人”の習慣・第6回】相手をもてなすにはまず自分をもてなす─茶の湯若宗匠が教える“心地よい人間関係”の極意
自分が満足できるものでしか、人はもてなせない
「私がお弟子さんによく話すのは、日頃から自分で点てたお茶を飲むことの大切さです。ふだんから自分のためにお茶を点てている人は、おいしい湯の沸き加減、お茶の量などがちゃんとわかっている。だからいつでも人にもおいしいお茶が点てられるのです。 反対に、稽古場でしか点てない人は、人に差しあげるばかりなので、自分の点てたお茶がおいしいのかどうかわからない。自らがおいしいと思えないお茶では、人をもてなすことはできないのです。この、おいしいお茶で人を喜ばすことは、作法を正確に覚えることよりもずっと大切なことなのです。 『わが身に置きかえる』とは、まず自らが楽しみ、自分本位の満足を得ること。他人本位であり、同時にまた自分本位である。 このふたつを表裏一体として、毎日の習慣とすれば、人間関係での迷いは少なくなり、悩みも改善されていくのではないでしょうか」(千氏)
自慢はしないが、謙遜もしすぎない
日本人が大事にしている習慣の多くは、どちらかというと相手や周囲への配慮や心づかいに重きを置いたもの。だが、まわりに気をつかいすぎたり空気を読みすぎたりすることで、疲れてしまったり、自分を殺すことが習慣になってしまったりしては本末転倒。時には自分本位も必要ということだ。 「常に謙虚でいることは大切ですが、そのためにはまず、自分に自信を持たなくては始まりません。自信を持つことと自慢することとは大きく違います。自己に対して自信があるからこそ、譲るべき一線がはっきりと見えてくるものですし、いざという時には毅然とした態度に出られるのです。 おごりや執着は、悪でもあり必要でもあります。室町時代中頃、茶の湯をわび茶として打ち出した始祖・珠光(しゅこう)の手になる一通の手紙が伝わっています。それは、珠光が弟子に宛てて送った『心の師の文』と呼ばれる文章で、その中で『茶の道において最もよくないのは、我慢我執(根拠のない慢心やおごり、執着)である』と説いています。 ところが、その文の最後には、「そうした悪しき我慢我執もまた、なくてはならない」と結んでいるのです。これは、自分に対する絶対的な自信がなければ、この道は成り立たない、という意味の、たいへん深い内容を持つ逆説であると私は考えています。 お茶を点てて人をもてなす時、まずは自分に自信がないことには、おいしいお茶は差し上げられません。また、自分が満足することが大前提でもあります」(千氏) 謙虚すぎず、同時におごりたかぶることもしない、これこそが人の道ではないだろうか。 (了。) 【プロフィール】 千 宗屋(せん・そうおく)/茶人。千利休に始まる三千家のひとつ、武者小路千家家元後嗣。1975 年、京都市生まれ。2003 年、武者小路千家15 代次期家元として後嗣号「宗屋」を襲名し、同年大徳寺にて得度。2008 年、文化庁文化交流使として一年間ニューヨークに滞在。2013 年、京都府文化賞奨励賞受賞、2014 年から京都国際観光大使。2015 年、京都市芸術新人賞受賞。日本文化への深い知識と類い希な感性が国内外で評価される、茶の湯界の若手リーダー。今秋、「人づきあい」と「ふるまい方」を説いた書籍『いつも感じのいい人のたった6つの習慣』を上梓。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授、明治学院大学非常勤講師(日本美術史)。一児の父。 Instagram @sooku_sen