なぜ日本では「国際標準」を満たさない法が定められるのか?…日本人の法意識にひそむ「闇」を暴く!
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏(明治大学教授)の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 【写真】なんと現代日本人の「法リテラシー」は江戸時代の庶民よりも低かった? ・同性婚は認められるべきか? ・共同親権は適切か? ・冤罪を生み続ける「人質司法」はこのままでよいのか? ・死刑制度は許されるのか? ・なぜ、日本の政治と制度には、こんなにも問題があるのか? ・なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から脱出できないのか? これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあると、瀬木氏はいいます。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏は、なぜ本書の執筆を決意したのでしょうか? また、何を訴えたかったのでしょうか? Q 家族法をめぐる法意識を論じた第3章でもふれられているとおり、2024年5月に共同親権等に関する民法改正が行われました。この改正については、離婚経験のある男性たちが自民党に働きかけた結果ともいわれています。従来の議論を聴くと、いろいろと問題をはらんでいるようにも思いますが、瀬木さんは、共同親権制度が必要だったと考えていらっしゃいますか? はい。私は、共同親権それ自体は、「両親と子、また両親どうしの関係に問題がない場合について認めるというのであれば」望ましい制度だと考えています。 もっとも、海外の制度は、家裁等関係機関の注意深い監視とケア(たとえば、一方の親に何らかの問題があれば家裁等関係機関が即時に介入して適切な処置をとるなど)とセットになっています。しかし、こうした関係機関の機能が十分に果たされておらず、むしろ、手つかずというほうに近い日本では、適切な制度的手当てのないままにこれを実施すると、さまざまな問題や紛争が生じるおそれがあります。 典型的な問題例としては、「肉体的・精神的被害にあっている妻が、離婚の条件として共同親権をのまされ、それが、元夫が元妻に影響を及ぼし続けるための手段として利用される」というものが挙げられていますね。こうした問題を考えるなら、従来の単独親権制度を維持すべきだったという考え方にも相当の理由はあります。 離婚後共同親権の適切な実現に向けて第一歩を踏み出すということであれば、その要件については、(1)とりあえず、「両親と子、また両親どうしの関係に問題がない場合」に限定するとともに、(2)「当事者の申立てに基づき簡易な審理を行った上での家裁、あるいは家裁の監督する機関の許可」を必要とする、という制度にすべきだったと思います。 本来、離婚については、裁判所が必ず何らかの形で関与し、子の親権を含む重要関係事項について最低限のチェックを行うのが適切であり、また、現在ではそれが、いわゆる先進諸国に限られない、明らかな「国際標準」なのです。 Q せっかく改正をしたのに、こうした限られた場合についてさえ、裁判所等のチェックを入れるという国際標準を満たさない立法になってしまっているのですか? そうです。改正法は、離婚後共同親権を原則当事者の協議にゆだね、家裁の関与は、「問題がある場合の関係当事者による親権者変更の申立て」を待っての二次的なものにとどめているのです。しかし、このような制度によって、力の弱いほうの配偶者が離婚を成立させるために共同親権を受け入れさせられる事態が本当に避けられるのか、いささか疑問を感じますね。 私の意見を含め、協議上の離婚をする際には親権者の定めに関して中立的な第三者の関与を経なければならないとする考え方につき、法務省は、立法準備作業の最終段階において、以下のような説明をしています。 「そのような仕組みを設けることは、協議上の離婚の要件が現状よりも加重され、国民に大きな影響を与えることなどから、慎重な検討を要するとの意見があった〔したがって採らなかった〕」というのです(「家族法制の見直しに関する要綱案のとりまとめに向けたたたき台」補足説明)。 しかし、これでは、ほとんど説明になっていないように思われます。要するに、「家裁の負担が重くなるからできない」というだけのことなのではないでしょうか。 でも、私は、現在の家裁でも、私見によるような形の関与、確認事務についていえば、その気になれば、可能ではないかと考えます。たとえば、右の事務については、弁護士から期間を限って採用する家事調停官(家事事件手続法二五〇条、二五一条)にも行わせることを可能にしかつその数を増やすなど、若干の制度的な措置さえ採れば足りると思うのです。 改正法施行後に、改正法による家裁の事後的な対応では不十分なことが明らかになった場合(多くの被害者が出た場合)には、そのこと自体大きな問題ですし、現在でも相当の批判のある日本の家裁のあり方に対する人々の信頼がさらにそこなわれる結果になりかねないように思います。 Q 瀬木さんは、現実的、実証的な自由主義思想の持ち主だと思うのですが、本書によれば、同性婚については、必ずしも諸手を挙げて賛成というわけではないようで、この点はやや意外にも感じました。 同性婚にはどのような問題があるとお考えでしょうか? このテーマは非常に微妙で難しいので、正確にはぜひ書物を読んでいただきたいのですが、なるべく正確さをそこなわないように簡潔に要点を述べてみます。 前提として、まず、同性婚という言葉の使い方に注意する必要があります。「同性婚」は、法的には、法律婚(普通の結婚)の一形態として同性間の婚姻をも認めることを意味します。これに対し、「登録パートナーシップ制度」は、婚姻外カップル(事実婚のカップル)の権利保護のために国家が創設するものですが、法律婚ではありません。 法的な保護は法律婚とほぼ同等ですが、その間に生まれた子は、普通の事実婚の場合と同様、とりあえずは婚外子となります。もっとも、父親が認知すれば、相続を含め、嫡出子(法律婚カップルから生まれた子)と同等の法的地位が保障されます。法律婚に準じる選択肢として、きわめて合理的なものです。 対象は、同性カップルとする国がより多いものの、フランスのパクスのように同性・異性の双方を対象とする国もあります。 ところが、日本のメディア等が「同性婚」という言葉を用いる場合、この相違をきちんと認識していない例が結構多いのです。 私は、「登録パートナーシップ制度の創設は適切だが、同性婚を法律婚の一形態として認め、同性婚カップルが子をもつことを認めるかについては当面結論留保」という立場です。 Q 確かに、私も、その違いをわかっていませんでした。 同性カップルについても登録パートナーシップ制度は認めてよいが、同性婚を法律婚の一形態として認め、同性婚カップルが子をもつことまで認めることについては当面結論留保、ということですね。 その理由はどういうことでしょうか? 同性婚は、同性のカップルに、異性のカップルと全く同等の「法的な保護、権利」を与えることができるかという問題を提供します。具体的には、同性カップルが子をもつことを認めるかという問題です。 同性婚を法律婚の一形態として認めるのであれば、子をもつのを認めるのも当然ということにならざるをえません。しかし、その場合、子について、その意思や自己決定権を含む権利、利益、福祉一般をどう考えるべきかが問われます。特に、子の意思については、生まれてくる時点では、どうにも考慮しようがないという問題があります。 後になってその子がどう受け止めるかは、その時点では、知りようがありません。芥川龍之介の『河童』における河童の子は、生まれてくるかどうかの選択権を与えられていますが、人間の子はそうではないですから。 また、同性カップルの場合、その間に自然に生物学的な子が生まれることはありえませんから、養子縁組で他人の子をもらうのでなければ、何らかの「生殖補助医療」が必要になります。女性カップルであれば第三者男性の精子が必要ですし、男性カップルであれば、第三者女性による「代理懐胎」が必要になります。 しかし、代理懐胎については、出産者にも卵子提供者にも肉体的な負荷がかかります(卵子提供者も、排卵誘発剤の後遺症に苦しむ例があります)。そのため、貧しい女性がお金のためにやむなくこれを行うという事態になりかねず、特に、発展途上国の女性が利用される例が世界的に問題になりました。 また、同性婚に限らず、不妊の異性カップルの場合にも用いられる非配偶者精子による人工授精(AID)については、それによって生まれる子たちがその事実を知ると、激しいアイデンティティークライシスにおちいる例があります(異性カップルの場合には、その事実は、知らされなければわかりませんから)。この問題は、子の側からみた、いわゆる「自己の出自を知る権利」の問題としても現れてきます。 したがって、同性婚カップルが子をもつことを認めるか、その場合の生殖補助医療についてはどこまでを認めるかという問題については、民法・家族法学者の間でも、法律実務家の間でも、諸外国でも、意見がさまざまに分かれているのです。 日本では、同性婚については、この本で論じている日本人の法意識から想像されるところとはいささか異なって、アンケートでも、賛成する人の割合が近年急増し、七割前後に至っています。しかし、同性婚は、少なくとも、同性婚カップルが子をもつことを認めるかという点については、考えておかなければならない多くの問題を含むのが事実で、保守なら反対、リベラルなら賛成といった、「パッケージ的に結論が決まってくるような単純なテーマ」ではありません。 Q なるほど。要点をうかがっただけでも、考えなければならない問題が多いことがよくわかります。 私は、このテーマについては、先のような諸問題についての十分な検討を経、また、これを認めた諸外国における制度検証の結果をみた上で、さらに、それらを踏まえての社会における十分な議論をも経て、決せられるべき問題と考えます。 ただ、民事訴訟法・関連法社会学の研究者であり元法律実務家である私としては、この問題については、「親の、子をもつ権利」、「子の側の福祉、利益、アイデンティティー等」の二つの要素のうちまず重きを置くべきなのは、後者だと思います。どのようなかたちで生まれ、どのような親をもつかを、子は、その時点では選べない。つまり、子にとって、生まれてくることには先のとおり選択の余地がなく、その意味では強制的な事柄であるのを念頭に置いた上で、子の福祉、利益等々が考慮されるべきでしょう。 もっとも、日本でも、同性カップルが直面している種々の問題に関する当面の解決策として、先にも述べたように、登録パートナーシップ制度を国家レヴェルで創設することは考えられると思います。これによって認められる法律上の効果は、財産関係、身分関係、年金・税・労働・医療関係等多岐にわたり、その結果として、同性カップルが直面している問題の多くが解消されるからです(なお、日本の地方自治体や民間企業が設けている登録パートナーシップ制度は今でもありますが、これは事実上のものであって法的なものではなく、その効果も区々に異なっています)。 また、登録パートナーシップ制度の対象には、同性カップルだけでなく異性カップルも含めてよいと思います。カップルの多様な選択を認めることによって社会の風通しがよくなり、婚外子も普通のことになって、これに対する偏見もなくなるという効果があります。出生率向上にもつながるでしょう。もっとも、子どものための福祉・保障の充実がその前提条件にはなりますが。 Q いやあ、アンケートもいいですが、まずは、前提として、こうした知識の普及も必要ですよね。 そうですね。日本人の法意識の問題にフォーカスを戻しますと、たとえば先のようなアンケートの結果が、「はたして、こうした事柄についての日本人の十分な理解を前提としているのだろうか?」という懸念は覚えるところです。 解答の方向というかニュアンスは異なりますが、死刑制度に関するアンケート等についても、前提となる、問題の所在についての法的知識の普及の不足、法意識の問題は同様に感じます。 また、これは共同親権論争でもあったことですが、同性婚を含め家族法領域の諸問題は、党派的な対立を生みやすく、政治的、イデオロギー的な右派や左派が関与すると、そうした傾向がさらに助長されます。そうすると、相互にひたすら相手側の非を言い立て、揚げ足をとるという不毛な論争におちいってしまい、適切な解決が導けなくなります。最低限、みずからの思想、信条、心情はひとまずおき、異論にも謙虚に耳を傾ける姿勢が必要でしょうね。 各種の運動やキャンペーン自体はさまざまな方向性のものがあり、また、それらは広い意味における政治の領域の事柄かもしれませんが、「適切な法的規制・規整のあり方」については、それらとは一線を画し、客観的で緻密な議論と調査の上に打ち立てられるべきものだからです。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)