新国立競技場の計画見直し 責任はどこにあるのか? 大杉覚・首都大院教授
「舵取り」不在の意思決定プロセス
ハディド案への批判はそれとして、問われるべきは、基本設計を進め、建設着工に結びつけていく事業のプロセス管理をめぐる問題です。建設費用の巨額さ、そしてそのめまぐるしいまでの金額の変転を見れば、なぜかくもコストについて見通しを持たないままに泥縄式の対応がなされてきたのか疑念が生じます。 新国立競技場の発注者であり、建設後の維持管理等を担うのは、文部科学省所管の独立行政法人である日本スポーツ振興センター(JSC)です。ですから、まずはJSCが全体の「舵取り」役としてのプロセス管理能力が問われます。 新国立競技場は国立の施設ですから、国の予算での建設がまず前提にあります。当然ながら、国立競技場整備のような巨大公共事業には、様々な思惑や利害・利権が絡んできます。せっかく新築するならば、国を代表するスポーツ施設にふさわしい規模にという声も沸き起こります。 例えば、新国立競技場で想定されている8万人という観客席数は近年の五輪メインスタジアムの規模としては平均的ですが、必ずしもそれだけの規模が要件とされたわけではありませんでした。むしろ、8万人という規模は、別途浮上した五輪前年の2019年開催ラグビーW杯招致に合わせたと言われています。 そして一旦「8万人」という数字が浮上すると、例えば、この規模のスポーツ競技大会は限られますので、収益率の高いコンサートなど文化利用に目が向けられ、それに合わせた屋根の設置など益々費用のかさむ仕様が追加されたのです。このように考えると、デザイン公募段階からしてすでに意思決定が漂流していた可能性があります。
船頭多くして船山に登る?
国立競技場建設のプロセスで中核をなす組織が、国立競技場将来構想有識者会議です。この会議は、さまざまな思惑や利害・利権が流入する場になります。 有識者会議は、コンペ審査委員長の安藤氏、森喜朗元首相・財団法人日本ラグビーフットボール協議会会長をはじめとしたスポーツ界の重鎮、そして開催地である東京都知事として石原慎太郎(当時)などがメンバーとして名を連ねています。新国立競技場整備という国の威信をかけたプロジェクトだけに、推進力として万全を期した体制だと言えなくもありません。 しかし、ここには二つの問題があります。一つは、これだけの著名建築家や有力政治家などビッグ・ネームを配し、国際コンペの募集要項決定から計画修正に至るまで全体にかかわる「権威的」な組織が存在すると、一独立行政法人にすぎないJSCが発注者として当事者能力を持ってグリップを握り、有識者会議と対等に交渉し、制御しきることは至難だったのではないかという問題です。新国立競技場整備は単なるハコモノの建設ではありませんので、監督官庁の文科省はもちろん、政府がより明確な方針を示すなどコミットした形での対応が必要だったのではないでしょうか。 二つ目の問題は、決定プロセスでのオープンさと柔軟性が乏しい点です。ハディド案が採択されたあと、建築家など専門家のみならず市民の間からも批判の声が上がり、メディアでも批判的な報道が相次ぐようになりました。ところが、これらの声に耳を傾け、場合によっては有識者会議を牽制できるようなオープンな仕組が適切に確保されていなかったのです。 五輪招致に前のめりになり、さらに招致決定という高揚感に浸っていた間は同調していた「船頭」たちも、諸々の課題が浮上すると、「船頭多くして……」といった事態に陥ったのです。オープンな決定プロセスがあらかじめ構築されていれば、迷走する前に、あるいは早期のうちに柔軟に舵を切り返し、体制を整えなおすきっかけをつかむことができたかもしれません。 ロンドンなど過去の五輪でも、当初案通りに競技場の建設が進められたわけではありません。例えば、仮設スタンドを導入することで整備費用を圧縮するなどの変更を行っています。報道によれば、新国立競技場については、従来のデザインを維持する一方で、当初から経費の圧縮の必要が指摘されていた、仮設スタンドの設置、開閉式屋根設置の先送りなどの経費圧縮策を採用する方針が固まったといいます。結局は、こうした結果で落ち着くのであれば、オープンで柔軟な意思決定回路を欠いていたために時間の浪費を招いたことになります。