「『non-no』でチーズケーキを紹介」「ロゼール城の城主」“洋菓子界の先駆者”今田美奈子(89)が伝える“本物”の力
「本物を正しく伝える」という使命感で、お菓子を文化として日本に定着させた今田美奈子さん。彼女がいなかったら、チーズケーキやクグロフも、これほど日本に広まっていなかったでしょう。 【画像】 89歳の“洋菓子界のレジェンド”今田美奈子さん 89歳の今もなお輝きを失わずに活躍し続ける今田さんは、専業主婦からどのような道のりを歩んできたのでしょうか。
日本ではおやつでも、西洋では食卓の「文化」
――普通の専業主婦だった今田さんが、どうやって洋菓子の伝道者になったのかをうかがいます。36歳のときにスイスの州立製菓学校へ行って何が変わりましたか? 私が参加させてもらった研修旅行は本来、製菓のプロたちを対象としたものでした。最初の2週間はひたすらデモンストレーションを見せていただいたのですが、焼き菓子やチョコレートボンボンなど、見た目が地味なお菓子ばかり。ほかの参加者は「これじゃあ覚えても日本では売れない」と嘆いていました。 でも私は、こんな地味なお菓子が、何百年も同じ形と名前で伝えられてきたことに驚いたんです。しかも、このお菓子たちは、正式な晩餐会や交流の場所で、人々をほっこりさせ会話を弾ませる重要な役割を担っている。それは、日本では子どものおやつとしてしか認知されていない甘いお菓子が、食卓の「文化」として定着しているということを意味していました。 ただ外国に行ければいいという思いで参加しましたが、帰国後は、このおもてなしの心、技術を日本に広く伝えたいと思うようになりました。 ――その後、『お菓子の手作り辞典』(1978年、講談社)や『お菓子物語 ヨーロッパのお菓子めぐりと作り方』(1983年、小学館刊)を出版されます。 帰国後にヨーロッパで学んだ伝統菓子の文化や正式名称などをまとめた本を出版したのは、私が見聞きしてきたことを正しく伝えたいという思いからです。それと、日本ではまだ知られていない伝統菓子を日本のみなさんにも知ってもらいたいという思いもありました。
『non-no』でチーズケーキを紹介
当時日本で人気があったのはイチゴのショートケーキや、アメリカ風のアップルパイで、ザッハトルテもカヌレもクグロフもありませんでした。 たとえば、いまサロンのメニューでもお出ししているサクランボのケーキは、ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルト地方で生まれたケーキなので、「ドイツのサクランボケーキ」ではなく、「シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ」が正式名称です。 このように、お菓子の名前も、材料名もすべて正確に伝える本『お菓子の手作り辞典』(1978年、講談社)を出したところ、「こんな本はなかった」と評判を呼び、大ベストセラーになったのです。 近年、とある一流のパティシエから、「小学生のときに(私の)著書を読んで、お菓子の本物の世界を知って感動した」というお話をうかがったとは嬉しかったですね。 ――私も小学生の頃、今田さんのご著書で、スポンジケーキの生地を「ジェノワーズ」、生クリームを「クレーム・シャンティイ」ということを学び、自分がお菓子上級者であるような気分になりました。チーズケーキを日本に普及させたのも今田さんですよね。 はい。女性誌『non-no』(集英社)で、当時日本では一般には知られていなかったチーズケーキを紹介したところ、家庭で作れる手軽でおいしいお菓子として一気に広まったのです。 「このケーキは今田さんのレシピですか?」と尋ねられたので、「いいえ、私はヨーロッパの家庭で伝統的に伝わってきたお菓子をご紹介しただけです」とお答えしたところ、編集長が「伝統は永遠の流行です」とおっしゃってくださって。そのお言葉を聞いて、もっと文化として伝統のお菓子を伝えていきたいと思うようになりました。 ――お菓子教室を開いたのも、文化として伝えていくためですか? そうですね。それまで料理教室は、華道や茶道のように習い事のひとつというものがほとんどでした。でも私の教室では、単純にお菓子の作り方をお教えするのではなく、伝統を文化とした「おもてなし学」をお伝えしました。 バブル期には「本物」の文化を体得するためにフランスのロワール地方のロゼール城を購入し、生徒さんをお城にお連れして授業をしたこともあります。 「今田美奈子食卓芸術サロン」を開いたのも、お菓子作りだけではなく、人生に必要な教養としてテーブルセッティングなどのおもてなし術や、世界共通の礼儀作法、日常のマナーを学ぶ教室を開催したかったからです。 続けていくうちに、一流のものを見極める力を身につけた生徒のなかから指導者を目指す方も出てきました。そうやって、ご縁がご縁を呼び、ビジネスとしても広がってきたのだと思っています。