江戸から東京へ続く象徴的名所―裏の視点が魅力、浅草・猥雑街の歴史的権威
歌舞伎町と双璧
もうひとつ、東京を代表する猥雑街といえば新宿だろう。 特に歌舞伎町界隈は世界でもトップクラスの猥雑さで、外国から来た建築家は、伊勢神宮や桂離宮にも興味を示すが、歌舞伎町にも興味を示すのだ。都市景観的に見て、日本の猥雑街には他国とは少し違った多様性があるように思う。 浅草と新宿、どちらも江戸の周縁であり、門前町あるいは宿場町として発達した。 浅草は昔も今も門前町としての性格が続いている。大きな仏寺や神社には人が集まるので、自然に物を売る街ができるのだが、人間は、お参りして心身を浄めると、不思議に低俗な遊びに耽りたくなるもののようで、昔は伊勢神宮も内宮と下宮のあいだにそういう施設が並んでいたと聞く。 新宿は近代化とともに大きく変化した。戦前から戦後にかけて、郊外住宅地を背景にした鉄道のターミナル駅周辺の繁華街となったが、歌舞伎町という猥雑な部分も残され、中国系、韓国系の力も加わってそれなりに国際化して発展した。 猥雑街にも、時代を超えて続く伝統的な要素と、時代に応じて変わる時勢的な要素がある。
六区・電気館・十二階
浅草で「ロック」といえば、軽音楽のジャンルではなく「六区」という地域を指す。雷門から本堂に至る参道が表とすれば、裏ともいうべき西参道周辺で、もとは明治期の区画整理の番号であった。そこに演芸場、ストリップ劇場、映画館などが建ち並び、すっかり猥雑な歓楽街の代名詞となったのだ。 電気館とはすなわち映画館のことで、それまでは映写機を持ち運んで上映したのが固定されて専門劇場となった。浅草を皮切りに全国各地に電気館ができ、やがて映画館に名称変更した。 十二階とは煉瓦造の展望タワーで正式には「凌雲閣」という。五重の塔は登れないし、天守閣は特別の人に限られ、しかも江戸城天守は燃えてしまっていたので、一般の東京人にとっては建築によって上からの展望を獲得する初体験であった。いわば東京タワーやスカイツリーの先駆けだ。煉瓦造であったため関東大震災で崩壊したが、「こわいは~じゅうにかい」というしりとり歌があったから、庶民的な感情は的確であったといえる。 明治の末から大正へ、写真、映画、高層建築が、日本人の視野をこれまでとは異なった次元に拡大した。それが現代のテレビやインターネットにつながる。その意味で浅草は「大衆ヴィジュアル革命」のリアルの歴史を語ってもいる。