江戸から東京へ続く象徴的名所―裏の視点が魅力、浅草・猥雑街の歴史的権威
高倉健とビートたけし
京都(清水)でも、大阪(野崎)でも、名古屋(大須)でも、観音様と芸能は縁が深い(「観=視覚」と「音=聴覚」を意味するからか)。 浅草ゆかりの芸能人といえば、少し前の世代はエノケンとロッパ、筆者の世代は高倉健とビートたけしを思い起こす。 なぜ高倉健かといえば、映画『昭和残侠伝』の主題歌「唐獅子牡丹」の中に「幼なじみの観音さまにゃ……曲がりくねった六区の風よ」と出てくるからだ。ビートたけしは、萩本欽一と並ぶ浅草から出てテレビで成功した芸人として知られ、『浅草キッド』という本も書いている。 高倉は、義理人情に厚く徹頭徹尾善人であるがゆえに世間と折り合えない役柄の映画スター、たけしは、むしろ世間の裏をかくような毒を含む芸風のテレビタレント。逆のようで、どことなく共通する人間的魅力がある。侠客風なところと、自らを社会の下層に置いた目線であろうか。これも浅草という地区の性格だ。 なぜか筆者の属する全共闘世代に人気を博した。 反体制の「気分」というべきか。アメリカならカウンターカルチャー、日本ならアングラ文化というのか。浅草にはそういう、権力や体制を裏から見る視点がある。
観光客の嵐
今は観光客が多い。かなりが外国人である。 六区の、かつては日雇い労務者や怖そうなお兄さんがいて、足を生み入れるのもためらわれた煮込み屋台の群れも、今ではニコニコした親子連れの観光客で賑わっている。さま変わりというものだ。 街が綺麗になり、安全になり、管理されるのはいいことだが、なぜか淋しい気もする。 人間にも、その集団にも、猥雑な部分はあるのであって、現代の再開発や観光ブームは、その行き場所を奪っているのではないか。行き場を失った暗い情念がインターネットの闇サイトへと流れるのではないか。そんなことを考えるのは、戦後の混乱期に生まれ育った筆者の世代的ノスタルジーかもしれないのだが。 それにしても人が多すぎる。 人間の嵐である。 経済的にはいいのだろうが、文化的にはどうだろうか。深いところの価値が踏み荒らされるような気もする。 日本だけではない。この一〇年、二〇年、世界の名所はすべて空前の観光ブームである。街並や建築といった文化空間が人の嵐に晒されているのだ。グローバリズムというものか。 やがて嵐が去って、静かになる時が来るようにも思える。資金過剰のバブルもあれば、人間過剰のバブルもあるようだ。