【能登被災地へ祈りを込めた羽生結弦の演技】自らの3.11の経験生かし、金沢で優しさで包む舞
被災地が自ら踏み出すために
「ニュースや新聞で(テレビ)画面や紙面では、(被災地の)現状を何度も見る機会はありましたが、実際に目でみたときに、(震災の)傷痕が生々しく残っていたことに、とても衝撃を受けました。地元の方々も、『ここでこんなことがあったんだよね』『ここが壊れてしまったんだな』ということを、いまだに思い返してしまうようなことをおっしゃっていたり、『ここに行きたくない』という話も聞いて、すごく胸に刺さるものが、痛むものがあったなと思いました」 一方で、こんな思いもある。復興への一歩は、被災地の人たちが自ら踏み出していくことで切り開かれていく。だからこそ、この日の公演は「挑戦 チャレンジ」と銘打ち、能登で活動する和太鼓虎之介や能登高校の書道部とともにつくり上げた。 「(被災地で中学生と交流した際の話を聞かれ)子供たちに会った時に言ったことは、どんなに辛いことがあっても、いずれ時が来れば、何かはしなきゃいけないということです。どんなにやりたくなくても、どんなに進めなかったとしても、結局は進まなきゃいけない。そんなことを言いました。 震災から半年以上が過ぎて、何ができるかとか、どんなことが進んでいるかとか、いろんなことを考えると思いますけど、来る時は来るし、来ない時は来ないから、もうしょうがない(仕方ない)って思うしかないところもあると思います。でも、“しょうがない”の中に、(被災者の)笑顔や、その時の一生懸命がいっぱい詰まっていたらいいなって思います」 自らの演技が、その背中を少しでも前に推し進める原動力になってほしいとの願いがこもった口調だった。
どんな時も感謝の気持ちを忘れない
仲間のスケーターたちも同じく思いを打ち明けた。 無良さんは「ユヅ君(羽生さん)の力を使って、チャリティーという形で開催できて、そこで滑る意義はすごく大きかったなと感じています。滑らせていただいた曲「燦々」の中の歌詞にもあります「大丈夫だよ」というメッセージを多く方々に伝えられたらいいなと思います。この演技会を見て、明日に向かっていく、次に進んでいく活力になってもらえたらなという気持ちで今回参加させていただきました」と神妙な面持ちで話した。 鈴木さんは「こうした震災が起きるたびに、すごく自分の無力さを感じてしまいます。でも、こうした機会に私たちが滑ることによって、何か伝えられるものがあるんじゃないかと。その気持ちをしっかりと胸に一生懸命に滑りました」と向き合い、宮原さんも「このような機会に自分も参加できたことにうれしく思います。自分のスケートを通して、(被災者の)人々の助けになれたらと思って滑りました」と力を込めた。 少しだけ、会場で目にした光景を紹介したい。それは、羽生さんが、最後に見せた印象的な場面がある。帰途に就く羽生さんを、数人の記者とともに待っていたときだ。 羽生さんが乗ったエレベーターの扉が開くと、出口に向かう前にスタッフが滞在している事務所の窓口で足を止め、視線を向けた。そして、こう話した。 「(オープンの)時期でもないのに、リンクを作っていただき、ありがとうございました」 実は会場のリンクは通常、10月から6月までスケート場として営業される。今年はこの日のショーに向けて、数週間早く、氷を張っていた。 そのことを念頭に、羽生さんは感謝の気持ちを伝えたのだ。いつも、どんなときでも、誰に対しても細やかな心配りをする。そんな羽生さんが訪れた9月15日が、復興の歴史に1ページを刻んだ。
田中充