なぜ出ない? センバツ本塁打いまだ「0」 選抜高校野球
兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開催中の第93回選抜高校野球大会は22日の第3日までの9試合を終えて、いまだ本塁打が出ていない。金属バットが登場した第47回大会(1975年)以降では最も遅い。野球の花ともいえるホームランだが、なぜ今大会は出ないのか、探ってみた。 開幕から大会初本塁打が出るまでの試合数は、金属バット導入以降では第65回大会(93年)の「9試合目」が最も遅く、第91回大会(2019年)までの平均は「2・73試合目」だった。今大会は大会通算800号まで残り2本、春夏合わせて通算2500号まで残り6本、歴史的節目が間近で、さらにセンバツでは令和初となるのだが、足踏み状態が続いている。 本塁打増減の波は、過去にもあった。木製バット最後の年となった第46回大会(74年)までは、大会を通じて1桁本数が当たり前。大会第1号が出るのも遅く、同大会では20試合目に日大三の豊田誠佑(後に中日)がランニング本塁打を放ったのみだ。翌年は金属バット効果か、開幕試合で初アーチが飛び出し、広い甲子園球場に開催を移した第2回大会(25年)以降最多の11本塁打が飛び出した。 金属バットが主流になると、今も大会記録として残る最多30本塁打が出た第56回大会(84年)など2桁本塁打が増えていく。第1号も第62回大会(90年)まで8大会連続で開幕試合で記録された。ちなみに第56回大会(84年)は清原和博(後に西武など)、桑田真澄(後に巨人など)らを擁したPL学園が1試合6本塁打を放つなど、チーム大会最多本塁打8本(清原3、桑田2)をマークしている。 流れが変わったのが第64回大会(92年)の「ラッキーゾーン」の撤廃だ。球場が広くなり同大会での本塁打数は前回大会の18本から7本に激減。ラッキーゾーンは戦後間もなく、本塁打を出やすくするために両翼から左中間、右中間にかけて金網のフェンスを設置し、越えれば本塁打としていた。撤廃翌年の第65回大会(93年)も11本塁打と伸びず、初本塁打も「9試合目」まで遅れた。ただ一人、この流れにあらがったのが第64回大会の星稜・松井秀喜(後に巨人など)。開幕試合で2打席連続を含む計3本塁打を記録し、規格外のパワーを見せつけた。 最後の波は、バットの重さが900グラム以上と規定された01年秋だ。導入直後は一時的に本塁打数が減った時期もあったが、重いバットを振れるように筋力トレーニングに励むチームが増えて体力、打力が向上。結果的に第76回大会(04年)以降は2桁本塁打を記録し続けている。 そんな流れの中での本塁打数の減少。ちなみに、今大会出場32校の昨秋の秋季大会を振り返ると、合計本塁打数は113本。神宮大会の有無など試合数の違いはあるが、過去5年の平均145・2本に比べて減少している。 大会第1号がなかなか出ない理由として考えられるのが、新型コロナウイルス感染拡大による実戦不足だ。昨年は春のセンバツ、夏の全国選手権ともに中止となり、毎日新聞が行った出場32校に行ったアンケートでも多くの監督が「実戦不足」を指摘している。 センバツ選考委員で日本高校野球連盟技術・振興委員会副委員長の前田正治さんは「バッターは試合を重ねる中で変化球への対応力が上がるが、コロナ下で試合数が非常に少なかった影響が出ていると思う。タイミングが合っているつもりでも少し差し込まれている。変化球の良い投手は抑えていくのではないか」と分析する。 U18(18歳以下)高校日本代表監督も務め、今大会にも出場した明徳義塾の馬淵史郎監督は、組み合わせ抽選が約3週間早まったことを理由に挙げる。「相手打者を研究できる時間が長くなった。『あのツボだけは投げるな』とか。そのデータは、投手にとっては大きい」と指摘する。 第1号を放つスラッガーはいつ現れるのか、注目だ。【吉見裕都、田中将隆】