「王墓=権力の象徴」説は、なぜ定説となったのか?
「王墓はなぜ築かれたのか」 エジプトのファラオが築いたピラミッド、中国の皇帝たちが造った山陵など、人類史には王の埋葬のためのモニュメントが数多くある。 【画像】「王墓=権力の象徴」説は、なぜ定説となったのか? それらは、王が自らの権力を誇示するために築造したと考えられてきた。 したがって「王墓の大きさは権力の大きさに比例する」「王墓は王の権力の象徴にほかならない」という理解が常識とされており、教科書にもそう書かれている。しかし、それは本当なのか? この定説に真っ向から反論した話題の書『王墓の謎』から、王墓が築かれた真の目的をさぐる! *本記事は河野一隆『王墓の謎』から抜粋・再編集したものです。
世界中を魅了する王墓からの出土品
19世紀後半から20世紀前半にかけて、欧米諸国は、ヨーロッパ文明のルーツの解明を目的とする調査団を、次々に古代オリエント地域に派遣した。古代オリエントとは四大文明に含まれるエジプト、メソポタミアを中心として、パレスチナ、トルコ、イラン高原などを含む、現在の中東に当たる地域である。ヨーロッパから見て東に位置するため、「太陽が昇る地域(オリエント)」と名付けられた。 ここは文明発祥の地であり、当時、文明と言えばヨーロッパ文明を指していた。だから、古代オリエントは文明の起源を解明できるフィールドとして、欧米各国から数多くの調査団が派遣され、オリンピックのように発掘が競われた。国の威信をかけた大規模な発掘の成果は、本国に送られ、古代の神殿のような博物館の中で、今なお世界中の観光客を魅了している。 王墓の出土品には、後世に託されたメッセージ性の強い文字資料が含まれることが多い。王の威信を永遠に伝えるために作られた豪華絢爛な美術工芸品や、王がいかに偉大だったかをたたえる記録などだ。発掘調査現場から出土した多量の副葬品は、博物館に持ち帰られ専門家による調査研究が進められた。
考古学者の夢と錯覚
その結果、王朝の系譜や当時の社会組織、信仰体系などがパズルのピースを一つずつはめ込むように復元された。それは古代オリエントを舞台として繰り広げられた文明史に新たな一頁を加え、しかもそれは次々に書き換えられた。 当時の発掘調査に、帝国主義を背景とした植民地調査という負の側面があったのは事実だろう。考古学者が王墓を発見することは国家的な名誉とされ、宗主国の博物館を満足させる多量の収蔵品が獲得でき、文明の起源の解明につながるという良い面ばかりに光が当てられてきた。 かくして、考古学者たちにとって王墓の発見は夢の頂点に位置づけられるようになり、いつしか考古学は墓を掘る仕事というイメージが形成されるようになった。 だが、出土品から過去を推理する考古学者が、墓ばかりに注目していて良いわけがない。たとえば、アメリカの人類学者であったG. P. マードックは、さまざまな社会に共通して見られる住居、家族、年齢階層など72の文化要素の比較研究を行っている。このうち葬儀に関するものが文化要素全体に占める割合を調べてみたところ、約5パーセントにすぎなかった。つまり、残る95パーセントに目を向けなければ社会の全体像はつかめないことを、この結果は示している。 しかし、当時の考古学の主戦場はほぼ埋葬に関連した資料に限定されていた。今にして思えば、副葬品だけで復元される歴史像はかなりいびつであったはずだ。 考古学ではこのアンバランスを埋め合わせるような格言が語られてきた。「歴史の沈黙せる処は、墳墓之を語る」と。これは、19世紀半ばにエトルリアの文化史をまとめたG. デンニスの言葉で、日本考古学の父、濱田耕作が印象的に言い換えたものだ。 墓は集落遺跡とは異なり、引っ越しに伴う片付けや敵の襲来による攪乱が少ない。無文字社会を研究する場合には、未盗掘であれば、墳墓からの出土品は絶好の研究資料を提供する。考古学者が墓に飛びついたのも仕方なかった。今では強弁のように聞こえなくもないが、この言葉は黎明期の考古学ではたいへんもてはやされた。