じつは日本で正しく理解されていない「トラウマ」…幼稚園、学校など子どものどの現場にも被虐待児がいる「衝撃的な現実」
あなたは本当にトラウマのことを知っていますか? 自然に治癒することはなく、一生強い「毒性」を放ち、心身を蝕み続けるトラウマ。 幼稚園、学校など子どものどの現場にも被虐待児がいる「衝撃的な現実」 講談社現代新書の新刊・杉山登志郎『トラウマ 「こころの傷」をどう癒すか』では、発達障害と複雑性PTSDの第一人者である著者が、「心の複雑骨折」をトラウマを癒やす、安全かつ高い治療効果を持つ画期的な治療法を解説します。 ※本記事は杉山登志郎『トラウマ 「こころの傷」をどう癒すか』より抜粋・編集したものです。
トラウマとはなにか?
トラウマとは、抱えきれないほどの辛い体験によって受けたこころの傷をあらわします。重症なトラウマは、自然治癒が極めて困難で、心身に大きなマイナスの影響が生じてきます。この治療のためには、「トラウマ処理」と呼ばれる特殊な心理療法が必要になってきます。しかしこのようなことは十分に知られていないため、トラウマを抱えながら苦闘されている人々が多数存在します。 『トラウマ 「こころの傷」をどう癒すか』は、深刻な問題を生み出しているトラウマのあまり知られていない知識と、その治療法について書かれています。 トラウマという言葉は、すでに日常語になっていますが、正しく理解されていないところが多々あります。あなたは以下の10項目についてどう考えますか。 (1)トラウマは日常的によく起きるものなので、だれでも一つや二つトラウマを持っている。 (2)日本で一番遭遇する可能性が高いトラウマは、地震などの大災害である。 (3)トラウマは「こころの傷」なので、不安神経症と同様に脳波の異常や脳の形の変化までは起きない。 (4)トラウマは分かりやすいイベントなので、精神科の他の病気に誤診されることは希だ。 (5)深刻なトラウマでも、時間が経てば徐々に治ってゆく。 (6)深刻なトラウマがあっても、それにいっさい触れず、本人も忘れるように努力すればやがて元気に生活ができる。 (7)したがって、トラウマがあっても一般的にからだの健康には大きな影響はない。 (8)トラウマの治療には、共感し、傾聴するカウンセリングが何より有効だ。 (9)深刻なトラウマを負った子どもたちであっても、しっかりと愛情を注ぐことでトラウマの傷を癒やすことができる。 (10)トラウマ治療は時間が大変にかかるので一般的な保険診療では実施できない。 実は10項目、全部誤っています。 本書をお読みいただければ、どこが誤っているのか理解いただけると思いますが、もっとも誤解されていると筆者が感じる、日常語のトラウマと治療の対象となるトラウマとの違いについて、最初に補足を行っておきます。 日常語という意味でトラウマを捉えれば、(1)は必ずしも誤りではありません。しかし治療を要するレベルのトラウマというものは、まったく別ものです。それが(2)に関連します。 深刻なトラウマの最たるものが性被害を含む、子ども虐待の被害です。驚くべきことに、子ども虐待のような長期にわたり反復されるトラウマ体験は、脳の構造にもはっきりとした変化を起こします。長期反復性のトラウマがあると、一般的なカウンセリングではかえって悪化することが多いので、特別な対応が必要になります。 注意を喚起したいことがあります。児童相談所における子ども虐待の相談対応件数は、わが国において数年にわたり年間20万件を超えています(2020年~2022年)。わが国の年間出生数は同じ時期において、年間80万人前後でした。つまり単純な計算をすると、相談対応件数は、出生数の4分の1ほどの数字になっているのです。こうなるとすでにこの10年あまり、幼稚園、学校、児童クラブなど、子どものどの現場においても、被虐待児に出会わないことはないという状況がすでに起きています。 子ども虐待のような重症のトラウマ(長期反復性トラウマ)は、さまざまな精神科の症状を引き起こします。特にその一部は発達障害の診断を受けます。そして未治療のまま成人に到ったとき、高い割合で今度は子ども虐待の加害側になってしまいます。これは「子ども虐待の世代間連鎖」として知られている現象ですが、現在ではその連鎖率は7割を超えると報告されています。つまり、虐待が連鎖しない割合は実に3割以下しかないのです。 後で詳細に紹介しますが、すでに20世紀の終わりに、子ども虐待をはじめとする子ども時代の逆境体験が、後の成人期にどのような影響を及ぼすのかという大規模な調査が行われました。その結果わかったことは、虐待経験者は、心臓病、肝臓病、慢性肺炎、さらに肥満、早期妊娠などが何倍も起きやすく、寿命も大変に短くなるという事実でした。さらには違法薬物依存などが生じる可能性も非常に高く、犯罪や地域の安全にも深く関係していたのです。 トラウマがもたらすさまざまな問題が知られるにつれて、わが国においても、重症のトラウマへの治療のニーズが大変に高くなっています。ところがわが国において、これまでトラウマへの治療は必ずしも十分ではありませんでした。 そもそもなぜかわが国では、子ども虐待のケアにおいてトラウマの治療という視点が欠落していました。加害を行う親の側も大半は元被虐待児であり、治療を必要としています。ところがわが国において、虐待を受けた子どもの保護のみで、トラウマの原因となる家族への治療が行われてこなかったのです。直ちに理解できるようにこれでは根本的な解決になりません。 なぜトラウマ治療の普及が遅れたのか。それには、さまざまな理由があると考えられます。そのひとつは治療法です。従来開発されてきたトラウマ治療の多くは時間をかけて実施するタイプのものです。一人ひとりに時間がかかるということは、数多くのクライアントの治療を行ううえで、足かせになります。 また、重症なトラウマについて、その存在はずっと以前から分かっていたのにもかかわらず、国際的診断基準に取り上げられてきませんでした。そのような重症なトラウマである「複雑性PTSD」がWHO作成の国際疾病分類第11版(ICD-11)に登場し、診断基準が確定したのは実に2018年のことです。 しかし、実はもうひとつ隠れた大きな問題があります。それは、重症のトラウマの場合、治療中に「解除反応」もしくは「除反応」という、過去の辛い体験のフラッシュバックが溢れ出し、収拾がつかなくなる現象がしばしば起きるのです。ベテランの治療者であればあるほど、この大変な状況をどこかで経験しているので、トラウマ処理で危険な領域に踏み込むことに躊躇するということが起きてしまうのです。 筆者は過去10年あまりをかけて、安全で、誰でもできる簡易型トラウマ処理、TSプロトコール(Traumatic Stressプロトコール)の開発に取り組んできました。この1~2年でその骨子がようやく固まり、ランダム化比較試験(RCT)という科学的な判定方法を行い、効果がしっかりと認められました。その結果を日本語と、英語の論文にして、それぞれ専門の雑誌に掲載されました。 筆者は走りながら考えるタイプの臨床医です。この簡易型トラウマ処理については、数冊の本をすでに書いています。私の著作をくまなく読まれている「理想的な読者」というものが存在するなら、TSプロトコールと命名された簡易型トラウマ処理のやり方や細部が少しずつ進化していることに気付かれるのではないかと思います。要するに試行錯誤を繰り返して現在の形になってきたわけですが、実はもうひとつ重要なことがあります。それはこのTSプロトコールの効果について、開発者自身が途中まで半信半疑であったということです。 臨床での試行を重ねてこの形に落ち着いたとは言え、TSプロトコールは非常に単純で、しかもきわめて奇異な治療法であることを、開発者自身が認めざるを得ません。こんなやり方で重症な複雑性PTSDに対する治療が本当にできるのかという疑問が湧くのは、まあ当然といえば当然です。筆者自身、TSプロトコールの治療効果を確信したのは、正直に言うとランダム化比較試験をやってみて、こんなに高い(客観的な)有効性があるんだと驚いて(!)以後のことです。 これまで筆者は、TSプロトコールのテキストを何冊か書いてきたと述べました。しかし、これは一般書というよりは、いま現在、複雑性PTSDと格闘をしている専門家が読むための専門書です。 本書はもうすこし一般的な読者に向けて、重症のトラウマとはいかなるものかを説明するとともに、トラウマ処理と呼ばれる治療法と、筆者が開発した簡易型トラウマ処理TSプロトコールの説明を行う目的で書かれています。 実はもうひとつの読者を想定しています。長期にわたる深刻なトラウマを抱える当事者の方々です。トラウマ処理という特殊な心理療法は、まだまだ行きわたっておりません。そのため、精神科を受診し、この治療に出会う確率ははっきり言って高いものではありません。TSプロトコールの特に手動処理は、安全性が高いので、セルフケアでも実施が可能です。もちろん、専門家が伴走して治療を行ったほうが良いことは言うまでもありませんが。 トラウマ処理は難しいものではありません。いまや安全に誰でもできる心理治療です。筆者は、臨床とはサービス業であると考えています。トラウマへの正しい理解が進み、高いニーズを持つトラウマへの治療という臨床に一人でも多くの方に参加してほしいと願っています。
杉山 登志郎