石原裕次郎さん生誕90年 忘れられない闘病中の「スクープ写真」
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム> 今年は石原裕次郎さんの生誕90年にあたる。NHK「うたコン」でも特集が組まれていたが、12月28日の誕生日を前に改めてこの人の大きさを実感している。 兄、石原慎太郎さんの芥川賞受賞作「太陽の季節」の映画化で端役デビューしたのをきっかけに一気にスターに駆け上がり、石原プロモーションを設立したのはまだ28歳の時だ。俳優としてだけでなく、プロデューサー、そして歌手としても活躍。52歳で亡くなるまでの活動期間30年の密度はあまりにも濃い。 裕次郎さんは新聞記者との付き合いも大切にしていた。例えば、石原プロが製作した映画「栄光への5000キロ」(69年)のロケ拠点となったケニアの首都の名にちなみ、現地取材した記者とともに「ナイロビ会」を結成。以来定期的な交流会を続けていた。 といっても、これは先輩たちから聞いた話で、私が記者になった80年代はとっくにテレビドラマに主戦場を移していた。「西部警察」の大規模なカーチェイスや爆破シーンが話題になっていた頃である。ドラマの収録現場は放送担当記者の範囲だったので、映画担当の私が取材したのは、晩年の裕次郎さんを苦しめた病魔との闘いだった。本人の意もあって、石原プロの取材対応は相変わらず協力的だったが、デリケートな話題だけに、そこにはせめぎ合いもあった。今でも忘れられないのは、望遠レンズがとらえた病室の姿だ。 「西部警察」のロケ中に背中と胸の激痛を訴え、裕次郎さんが東京・信濃町の慶応病院に入院したのは81年4月だった。「解離性大動脈瘤(りゅう)」と診断され、手術が行われた。以来1カ月以上その姿を見ることはできなかった。 石原プロの「番頭」小林正彦専務が連日囲み取材に応じて、裕次郎さんが回復に向かっている様子を語ってくれたが、もう一つ実感がわかなかった。なんとしても裕次郎さんの姿をこの目で見たい、伝えたいという思いがあった。 関係者の口は硬かったが、何とか病室を特定。昼は日差しが窓に反射するが、夕暮れ時には室内灯で中の様子が見えることも分かった。昼間のうちに橘信夫カメラマンとともに近隣のビルを巡り、望遠レンズをピタリとその窓に向けられるスポットを探り当てた。今ならコンプライアンス上、自粛するべき取材行動には違いない。 5月15日の午後7時過ぎにその時はやってきた。「見えた!」。カメラマンの連写のシャッター音がずっと耳に残った。当時はフィルム撮影だから、成果を確認できたのは会社に帰って現像してからだ。 酸素吸入機は付けられていたが、表情は穏やか、顔色も良かった。回復の様子が伝わってきた。翌16日の新聞に掲載した「スクープ写真」は顔色の分からないモノクロだったが、回復の様子は伝わったのではないかと思う。 石原プロの広報担当者からは厳しいおしかりを受けたが、「出禁」はその日だけだった。翌日の囲み会見で小林専務から「あんたか」と強い口調で言われた。でも、その目は決して怒ってはいなかった。そういう時代だった。 回復した裕次郎さんはその数日後に病院の屋上から取材陣に手を振った。亡くなったのはこの6年後、87年の7月17日のことだ。【相原斎】