「私は父の精神疾患を支えるヤングケアラーだった」シンガーソングライター・玉城ちはる「父の自殺、過酷な試練を乗り越えて」
現在シンガーソングライターとして活躍する玉城ちはるさんは18歳で父親の自殺を経験。精神疾患を持つ父親から目が離せない状況で過ごした高校時代を「今思うとヤングケアラーだった」と振り返ります。経済的な苦労も乗り越えどのように「歌手」になる夢を叶えたのか、お話を伺いました。(全4回中の1回) 【写真】「真っ赤なパンプスが目をひく」下積み時代の玉城さん(全14枚) ※本記事は「自殺」に関する描写が出てきます。体調によっては、ご自身の心身に影響を与える可能性がありますので、閲覧する際はご注意ください。
■誰にも相談できなかった父親の精神疾患 ── 玉城さんは自殺遺児であることを公表なさっています。当時のことを教えていただけますか? 玉城さん:私の父はとても人情に厚い優しい人で、保護司の方に頼まれて少年院から出院した人を預かったりするような人でした。私が高校生のころ、そんな父がときどき自殺未遂を起こすようになったんです。 当時、父は建物(建築物)の解体業をやっていて、阪神淡路大震災後の被災地の解体の仕事をしていました。復興には10年かかると言われていたので、本格的に仕事をするためにも3億円くらいかけて重機を購入したのです。ただ、いいことなのですが、予測より早く復興が進んだため、父の仕事は激減。回収しきれない借金だけが残りました。バブルもはじけて父は返済できず、心が病んでいきました。実は、父はこの事情をいっさい家族に明かさなかったため、すべてを知ったのは亡くなったあとだったので、なぜ父が死にたいという思いを口にするようになったのかわかりませんでした。
── お父さんは病院にはかかっていらっしゃったのですか? 玉城さん:精神科ではなく、普通の内科に「体調が悪い」といってかかっていました。今思えばうつ(双極性障害)症状だった父ですが、当時はまだ精神科に行くことはハードルが高く、周りに知られると距離を置かれるという発想がある時代だったんです。周囲も私たち家族も精神の病に関して知識が乏しかった。 ふさぎこんでしまうこともあれば、元気が出たときはみずから自分を傷つけたり、母へ暴力をふるってしまう。他害のときは私が間に入って止めないといけなかったので目が離せない状態で、高校生ながら「自分がどうにかしないといけない」と、常に父のことを考える日々でした。