俳優・横浜流星の唯一無二の魅力とは? 映画『正体』考察&評価レビュー。藤井道人とのタッグ作から読み解く役者としての現在地
兄弟作としての『正体』と『ヴィレッジ』
『正体』と『ヴィレッジ』はいわば、横浜流星の顔をめぐる兄弟作みたいなものだと考えられる。 『ヴィレッジ』の横浜は、それが喜びなのか、それとも怒りなのか、はたまた哀しみなのか、判然としない複雑な感情を主人公・片山優の表情として仮託しながら表現している。 作品全体の底流をなすのは、能楽の幽玄的異世界。能面はそれ自体に表情がないはずなのに、能楽師が装着した瞬間にいききとした表情が生まれることは「面とペルソナ」の和辻哲郎が指摘している。この面の不思議こそ、内面に裏打ちされない外面の芸術の真髄である。 その意味で『ヴィレッジ』の複雑化された表情はあくまで主人公の内面を表出したものであるのに対して、『正体』では(表情云々ではなく)顔そのものとしての外面の演技がひたすら強調されることになる。 たとえば、安藤のマンションから逃亡したあとの鏑木が鏡の前に立つ場面。目を細く加工するなど、今まで以上に徹底して別人になりすます。自分の身体だけは同じ入れ物でありながら、面だけを入れ替えていく。この身体と面との関係性が能楽的でもある。 両作にはさらに共通する場面がある。安藤のマンションを仮住まいにする鏑木が、悪夢にうなされて起きる朝の場面。「うわぁっ」と目を見開く瞬間が顔のアップで捉えられる。 同様に『ヴィレッジ』の優もまた悪夢を見て目覚める。目元のアップが息の荒さを伝える。鏑木が飛び起きるソファと優が寝起きする万年床。横浜が主演する藤井監督作で繰り返し描かれる悪夢の起床場面は物語序盤に置かれる。そうして、俳優の外(内)面とキャラクターの内面が徐々にリンクしながら、横浜の演技がフィジカルとして起き上がる作品構造になっている。 つまり、藤井監督の作品は、二重、三重の意味をどんどんオーバーラップさせながら、横浜流星の演技を重層化している。
藤井道人×横浜流星とスコセッシ×ディカプリオコンビの親和性
『ヴィレッジ』では、ゴミ処理場を根城にするチンピラたちの賭けボクシングが描かれ、優がタコ殴りになる場面がある。藤井監督の作品で横浜がボクシング要素を演じるのは同作だけだが、主人公が命懸けの勝負に挑んでリング上に上がる『きみの瞳が問いかけている』(2020)や『春に散る』(2023)では本格的にボクサー役を演じた。 『春に散る』の横浜は役作りのためにプロボクサーのライセンスを取得した。ボクシング映画における徹底した役作りというと、ロバート・デ・ニーロの『レイジング・ブル』(1980)がすぐに思い浮かぶ。ボクシング映画に出演する俳優同士、横浜とデ・ニーロの演技をかすかな類似で読み解くことができる(『若者のすべて』のドロンもまたボクサー役)。 アクターズ・スタジオ出身者であるデ・ニーロは、いわゆるメソッドと呼ばれる演技法によってキャラクターの内面を掘り下げるために役作りを徹底することで知られている。ただデ・ニーロの場合、同じメソッド俳優の先輩であるマーロン・ブランドのように内面的な演技が過剰になることはない。あのにやけ顔を終始浮かべることで外面性がむしろ過剰になる。 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)のセルジオ・レオーネ監督は、どうしてもラストのワンショットをデ・ニーロのにやけ顔にしたい誘惑に駆られたのではないか。『正体』の藤井監督も上述した居酒屋場面で、過剰な外面として表出する横浜の顔そのものを撮りたいと思い、吉岡里帆との切り返しショットを演出したのではないかとぼくは思う。 デ・ニーロは『レイジング・ブル』他数々の映画史的作品を共有してきたマーティン・スコセッシ監督に、『ボーイズ・ライフ』(1993年)で共演したレオナルド・ディカプリオを推薦している。ディカプリオとスコセッシ監督は『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)以来タッグを組むことになる。 次回作が7度目のタッグとなるが、横浜と藤井監督コンビのタッグ数と単純に共通する。そうしてやっと共有できる俳優と監督の世界があるのか。ディカプリオ&スコセッシ監督コンビがそれぞれキャリアの頂点でタッグを組むようになったとはいえ、アイドル俳優だったディカプリオがアカデミー賞俳優へ駆け上がる持続的な転換点はスコセッシ監督作にある。 ピンク髪の主人公・由利匡平が「ユリユリ」の愛称で多くの視聴者を虜にした『初めて恋をした日に読む話』(TBS系、2019)で大ブレイクした横浜もまた『青の帰り道』(2018)以来、平行して藤井監督との信頼関係を温めながら、映画俳優の佇まいを磨いてきた。 彼の役作りは一見、メソッド的なアプローチに思えるが、実は内面的なアプローチに見せかけた外面の演技の見せ方なのだと思う。