〈高校サッカー〉星稜、優勝して入院中の河崎監督を卒業式で胴上げを!
3つ目は、1985年からチームを率いてきた55歳の河崎護監督の存在だ。 まるで父親のように教え子たちへ深い愛情を注ぎ、ときには厳しい言葉で叱咤激励してきた名物監督は、今大会でまだ一度も指揮を執っていない。開幕を直前に控えた先月26日。助手席に乗っていたワゴン車が愛知県内で交通事故を起こし、腹部を強く打撲して病院に緊急搬送された。 命に別条はないとされているが、その後に腸に内出血を起こしたために手術が施された。木原力斗監督代行は日大藤沢戦後に河崎監督と何度か連絡を取っていることを明かしたが、回復具合を含めた詳細については言及を避けている。 河崎監督不在のままで臨むことになった今大会。全体ミーティングでは、毎日のように同じ言葉が繰り返された。藤島が言う。 「監督が戻ってくるまで絶対に負けられないと。一戦一戦を大事に、監督のため、試合に出られない仲間のために全力で戦ってきたからこそ一丸になれて、決勝戦に進めたと思っている」 河崎監督はピッチの内外で、選手たちに妥協を許さなかった。 戦術面では攻守の切り替えの速さを要求してきた。ボールを奪われた瞬間にはプレスをかけ始め、奪ったときには味方の選手がすでに動き出している。セカンドボールへの反応がルーズになったときには、容赦なくカミナリが落とされた。 練習ではとにかく声を出し続け、ピッチの上で自分を出すことを求められた。ピッチから離れれば、たとえば試合会場では面識があろうがなかろうが、会う人すべてに挨拶する礼儀正しさを徹底させた。 その上で生徒一人ひとりの個性を伸ばすことも忘れない。たとえば藤島は、口を酸っぱくしてこう言われ続けたと明かす。 「自分は調子が悪いときにボールを止めてしまう癖があるので、とりあえずボールを動かせと。そしてタテにどんどん仕掛けろと」 2点目の起点になった鮮やかなヒールパスは相手とコンタクトしてもバランスを崩すことなく、ボールを味方に託そうという意識がもたらしたものだった。ベンチにその姿はなくても、河崎監督の教えは準決勝のピッチでしっかりと実践されていたことになる。