「代々木公園のイラン人」はなぜ激減したか ビザ免除停止の陰に入管幹部の英断 「移民」と日本人の平成史②
平成初頭、不法滞在と犯罪という不名誉な行為ばかりが注目された人々がいた。中東から来たイラン人だ。東京の代々木公園や上野公園は彼らの姿で埋まり、変造テレホンカードや薬物の密売が横行した。彼らは日本政府の政策転換の結果、数年後には激減した。 ■「ジパング」を目指して イラン人が日曜ごとに代々木公園に集まり始めたのは1990(平成2)年。92年には一日に約6千人が詰めかける日もあり、若い男ばかりがたむろする様子は当局から「蝟集(いしゅう)」と呼ばれた。「蝟」はハリネズミを意味し、その毛のように多く寄り集まる状態を表す。 日雇い仕事などの情報交換のほか、磁気情報を不正に改ざんした変造テレカが1枚数百円~千円程度で売られ、ハシシと呼ばれる大麻など薬物の密売、盗品の貴金属の転売など悪質なものもあった。 当時のイランは79年のイラン革命、翌80年から88年まで続いたイラン・イラク戦争で社会が混乱。ちまたに失業者があふれ多くの若者が国を出た。向かった先は欧米などのほか、当時、空前のバブル景気を謳歌し、黄金の国「ジパング」とさえ呼ばれた日本だった。 日本とイランの間では74年から、現在のトルコと同様、観光目的など短期滞在の査証(ビザ)免除措置が行われていた。航空券代さえ負担できれば、パスポート一つで来日。ピークの92年には、イランのスタジアムで日本行き航空券の抽選会が行われた。 そのころは難民認定申請ではなく、オーバーステイで不法滞在を続けるケースが多かった。日本人の側も「3K(きつい・汚い・危険)」職場を中心に、人手不足の中で現れた「外国人労働者」を、不法就労と知りながらも重宝がった。 ■水害後に「観光客」急増 イラン人が急増する少し前の80年代、南アジアの国バングラデシュでは、ガンジス川などの大河の氾濫や洪水が多発。成田空港の入国審査官は当時、水害の1週間ほど後から同国の「観光客」が急増することに気づいた。 イランと同様、バングラデシュとパキスタンも当時、わが国と短期滞在のビザ免除措置をとっていた。彼らは入国後に入管を訪れ、短期滞在の延長許可を求めたが、申請者は男ばかりで、ボストンバッグの中身は作業服。両手を見るとつめの間に土がたまっていた。「浅草やディズニーランドを観光した。これから沖縄や札幌を観光したい」と、判で押したように同じ申請理由を口にした。