不謹慎、だがド直球『デッドプール&ウルヴァリン』夢の共演をつないだ男たちの友情
デッドプールにしかできない「ファン感謝祭」
デッドプールの奇跡的なMCU続投と、レイノルズ&ジャックマンにしかできなかった奇跡的なウルヴァリン復活劇。完成した映画『デッドプール&ウルヴァリン』は、まさにデッドプール≒レイノルズにしかできない“ファン感謝祭”というべき作品に仕上がった。 シリーズでおなじみの、メタでブラックなユーモアは冒頭から炸裂。ディズニーもフォックスも、マーベル・スタジオでさえその標的となった今、安全地帯はどこにもない。360度全方位に笑いの爆弾をばらまきながら、同時にMCUの正史作品として、『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)以降の「マルチバース・サーガ」の世界観を踏襲してゆく。 キーワードはドラマ「ロキ」(2021~)に登場した時間変異取締局(TVA)。彼らはデッドプール/ウェイド・ウィルソンに時系列を混乱させた疑いをかけるが、事件の背後にはデッドプールのいる世界を存亡の危機に導く陰謀があった。友人たちを守るため、デッドプールはマルチバースに旅立つが……。 もともとメタ認識を持つデッドプールが、マルチバースをメタに行き来したらどうなるか。ここには、「主人公が自分はゲームのモブキャラクターだと気づいてしまう」という『フリー・ガイ』との奇妙なリンクがある。ウルヴァリンを召喚したデッドプールは、ともにマルチバースの裂け目にダイブして、予想もつかない“メタな”冒険を繰り広げるのだ。そう、「“なんでもあり”がこのユニバースと世界の魅力。サプライズは『デッドプール』の本質」だとレイノルズも強調しているように。 ただし、これは『デッドプール』シリーズである。怒涛の笑いと血みどろアクション、サプライズのベールをはぎ取ると、そこにストレートな人間ドラマが横たわっているのは変わらない。本作の場合、過去作から継承されたデッドプール/ウェイド・ウィルソンが抱える心の傷と、今回ならではのウルヴァリンの事情がその引き金になる。以前、レヴィは『フリー・ガイ』におけるレイノルズとの創作をこう語っていた。 「『フリー・ガイ』の脚本はビデオゲームが題材でしたが、僕たちは別のテーマやメッセージを考えていました。観客を夢中にさせて笑わせる映画、そして優しさを恥ずかしがらない映画をつくりたいという点で(レイノルズとは)意気投合したんです」 『デッドプール&ウルヴァリン』はまさしくこれぞ同じスタイルの、レヴィの得意技が炸裂した一作だ。『フリー・ガイ』は「いかに自分の人生を生きるか」、『アダム&アダム』は「いかに現実を受け入れるか」、そして『リアル・スティール』は「いかに諦めず立ち上がるか」――。レヴィの映画には、王道かつ直球のメッセージを、彼自身の言葉を借りれば「恥ずかしがらない」で表現する強さがある。そして、他者との絆やつながりを信じる温かさがある。 シリーズの過去作に比べると“メタ度数”があまりにも高いため、単独映画としての好みは分かれそうだが、『デッドプール』シリーズと今回の題材&ストーリー、そしてフィルムメイカーの相性はぴったりだ。ドタバタと楽しく、最後にはグッと来るエンターテインメントに仕上げてみせたレヴィの職人的な仕事にも唸らされる。 ちなみに本作には、『X-MEN』『デッドプール』シリーズのプロデューサーであるローレン・シュラー・ドナーとサイモン・キンバーグも揃ってMCUに初参戦。いまやマーベル・スタジオの社長となったケヴィン・ファイギは、ジャックマンがウルヴァリンを初めて演じた『X-MEN』(2000)で、ドナーのアシスタントとしてプロデューサーとしてのキャリアをスタートさせていただけに、こちらも運命的な再タッグとなった。 デッドプールにしか許されない自由なストーリーテリングに、およそ四半世紀にわたってマーベル映画に携わってきたウルヴァリン役のヒュー・ジャックマンと重鎮たちが乗っかった、これぞまぎれもなく“デッドプールならではのファン感謝祭”。何度もできることではない禁じ手だが、ひとつの記念碑的一作として堪能したい。
文 / 稲垣貴俊