二十歳のとき、何をしていたか?/関根勤 師匠を持たない素人芸人が、プロになった20代で経験したのは、テレビという大舞台での〝公開修業〟。
大学最後の1年限定で、 プロの芸人デビュー。
1972年、当時の若者から絶大な支持を集めた伝説的なバラエティ番組がTBSで放送開始した。その名は『ぎんざNOW!』。特に人気の高かった企画が、素人芸人がネタを競い合う「しろうとコメディアン道場」だ。1974年10月、この企画に彗星のごとく現れた一人の青年が、大爆笑をかっさらうという事件が勃発した。大学3年生の関根勤さんだ。 【取材メモ】「あのときSNSがあったら僕は消えていましたね。」 「僕は高校の頃から友達と一緒に目黒五人衆というグループを組んでお笑い活動をやっていたんですよ。目黒区勤労福祉会館なんかを貸し切りにして400人くらいの観客を呼んでネタを発表したこともありました。だけど、他のメンバーが就職活動をするということで解散になってしまって。そんなときに知ったのが、この企画でした。自分のやってきたことがどのくらい通用するのか、腕試しのつもりでオーディションを受けてみたんです」 オーディションでは自身が中2から磨き上げてきたあらゆるネタをなんと45分にわたって披露しまくったというから、かけた意気込みは推して知るべし。結果、プロデューサーに気に入られたばかりか、「しろうとコメディアン道場」の構造まで変えさせてしまったという。もともと週ごとの勝者を決めるだけだったのだが、大量のネタを持っていた関根さんを見込み、5週勝ち抜き制にしてチャンピオンを決めるという形式に変わったのだ。もちろん、関根さんが初代チャンピオンだったことは言うまでもない。 「その審査委員席に座っていたのが、僕が所属している浅井企画の社長だったのですが、チャンピオンになった収録終わりに喫茶店に呼ばれて、こう言われたんです。『どうだ、プロになってみないか?』って。僕はお笑いが好きで、俯瞰でものごとを見ていたので、『いや社長、僕みたいな所詮はクラスの人気者でしかないアマチュアが通用するとは思えません』と一度はお断りしたんですが、『いや、コント55号を育て上げた私が保証する』って食い下がるんですよ。当時、コント55号っていったら、もう例えようがないくらいのスター。それを育てた人に才能を認められたから舞い上がっちゃいましてね(笑)。大学卒業するまでの1年だけ、浅井企画に預かってもらうことになったんです」 当時のお笑い業界は、まだ師匠の下で修業を積んでからデビューするのが当たり前の時代。一足飛びに第一線に放り込まれるなんていうのは前代未聞と言っていい。そんな異例の処遇を受けた関根さんだったが、いざ飛び込んでみると緊張で実力を発揮できない日々が続いたという。そうこうするうちに、目と鼻の先まで迫ってきたのは、大学卒業というタイムリミットだ。 「僕は高校の頃から、将来は尊敬する親父の後を継いで消防署員になるつもりだったんです。だけど、ここで芸人を辞めて消防署員になったら、20代後半で同世代の芸人が脚光を浴びるようになったとき絶対に後悔するし、そう思いながら消防活動をするのは失礼だなと。だから、30歳までは続けて、それでも芽が出なければ辞めようと考えを改めたんです。親父はがっかりしていましたけどね」