本州の児童がわざわざ通学「ここにしかない魅力がある」過疎化進む離島の希望 復興へ思いはせ #知り続ける
降りしきる雪の中、家屋や船が濁流をさまよう―。東日本大震災の津波被害を伝えるその写真は、宮城県塩釜市の浦戸諸島・野々島で撮影された。一帯は当時、最大8メートル超の津波に襲われた。もともと過疎化が進んでいた地域だが、津波で家や仕事を奪われた住民は次々に島を去っている。震災から13年。塩釜港から市営汽船で浦戸を巡ると、様変わりした景色に戸惑いながらも、かつての文化や記憶をつなぐ人々の交流が見えてきた。(共同通信=小向英孝) 【写真】「ともに」と描かれた電飾が光る中、海岸で打ち上げられる花火
▽「つながりがなくなるのは嫌」 浦戸諸島は日本三景の一つ松島(宮城県)の湾内にあり、有人4島と多くの無人島から構成される。東日本大震災の津波では、全体で家屋の約半数が全壊・流失し、4人が犠牲になった。過去に幾度も津波に見舞われ、寒風沢島には1960年のチリ地震津波の被害が刻まれた石碑が残っている。 浦戸諸島で人口が最も多い桂島。漁業などの就労支援施設で働く内海信吉さん(64)は「(島民は)何をするにも一緒だった」と話す。誰かが家を建てれば本州から船で資材を運ぶ。地区ごとに分かれて競う運動会の後は、酒を囲んで語り合った。狭い島ゆえ、家族のような絆が生活を支えた。 震災発生時も「誰がどこにいるか把握できていた」。約半数が高齢者だったが、消防団員は歩行困難な住民を軽トラックに乗せて優先的に搬送。住民同士でも避難を促し、全員無事だった。土地柄、生活必需品を買いだめしている家庭が多く、避難所では食料や燃料を持ち寄って炊き出しを行った。トイレ掃除などの役割分担も決めた。
ただ、住民の多くはその後、島を去った。浦戸全体の人口は震災直前に589人だったが、今は半分以下。「つながりが深かった。それが無くなるのは嫌なんです」。内海さんの顔が曇った。 ▽豊漁に沸いた風景は様変わり 野々島では、消防団員だった遠藤勝さん(60)が震災当時を語ってくれた。 「『ギギギギ』って、家がねじ切られるのを、今も夢で見るんだ」 いつも鏡のようにないでいた海が一変した。長い揺れの後、陸地に波が押し寄せる。「山に逃げろ!」。家々から住民を連れ出し、必死に走った。転びながら高台を駆け上がると雪が降り出し、眼下で家屋が濁流にのまれていた。 写真が撮影された桟橋付近は現在、舗装され無機質な灰色の地面が広がる。びっしりと立ち並んでいた住宅は流され、岩からなる島の地形があらわになっている。あちこちに空き地ができ、日中でも人影はまばらだ。 津波で漁船や加工施設が破壊されたことで、島のなりわいだったアサリ漁やカキ養殖が廃れていった。「漁師を諦めた人がだいぶいた。みな若ければ、今も島で続けていたんだろう。それなりに年をとっていたんだな」。途絶えた伝統行事もあるという。寒空の下、豊漁に沸き活気があったかつての日常風景を想像した。