空襲おびえた日々 疎開 不安と涙隠して 戦後79年 ――本紙記者 祖母とつなぐ戦禍の記憶――
「母が握った梅干しのおにぎりを妹、弟と分け合った。おなかは満たされなかったけど、ご飯を食べている時だけは幸せだった」 身を寄せ合う家族の姿を思い浮かべた。懸命に生きようとする人たちに苦難を強いる戦争の理不尽さを感じた。 ■出撃待つ少年見送る 疎開先、予科練生と交流 1945(昭和20)年5月、戦況の悪化で祖母今関郁子(93)は親類の住む愛知県岡崎市に疎開した。当時14歳。現地では出撃を待つ海軍飛行予科練習生(予科練)の少年たちと交流した。「悲劇を絶対に繰り返してはいけない」と強調する。 親類宅に疎開して1カ月が過ぎた頃、予科練生が泊まりに来るようになった。14~17歳の若者たちだ。 「2人一組で土日を過ごした。雰囲気は暗かったよ。出撃前に家庭のぬくもりを感じてもらおうという配慮だったのかもしれない」 岡崎市の市民団体「岡崎空襲を記録する会」の資料などによると、一般の家庭が予科練生の下宿先になったり、食事を振る舞ったりしていた。予科練生との交流はどうだったのか。
「戦争のことを忘れて笑顔で帰ってほしかった。風呂を用意し、一緒に食事してトランプで遊んだ。最後に見送ったのは青森県出身の人で、形見として万年筆と写真を託されたんだ」 祖母の話を聞いて当時の様子を調べてみたくなった。今月、岡崎市に住む鈴木静扶(しずお)さん(90)を訪ねた。戦争末期、毎週土曜日に岡崎海軍航空基地の曹長が自宅に泊まりに来た。付き添いの予科練生3人も一緒だった。 「ある日、曹長から『人間魚雷に乗るため、横須賀の基地に赴きます』と告げられました。予科練生3人も出撃するため九州の基地に向かいました。私は11歳でした。優しい人たちでした。送り出すのはつらかった。もう会えないと思うと涙が出ました」 取材の後、見上げると雲一つない青空が広がっていた。戦時下、自分より年下の若者たちが、この空に飛び立って行ったと思うと心が痛んだ。 祖母は45年7月20日、岡崎市でも空襲に見舞われた。中心部にある慰霊碑が悲惨さを今に伝える。祖母は親類宅の防空壕に避難した。家は焼失したが、家族は全員無事だった。数年後、現在の福島市にいた姉を訪ねた際、教員だった祖父と出会い結婚して今に至る。
いまだ世界各地で戦禍は絶えない。ニュースを見てどう感じているのだろう。 「自分の体験を重ねてしまう。犠牲になるのは一般の人たち。平和はとても尊い」