空襲おびえた日々 疎開 不安と涙隠して 戦後79年 ――本紙記者 祖母とつなぐ戦禍の記憶――
79回目の終戦の日が近づいてきた。戦禍を知る体験者は年々減り続ける。戦争の記憶と教訓をどう受け継ぐか。長野県の大学を卒業し4月に古里・福島市に戻って新聞記者になった。同居する祖母今関郁子(93)は東京で空襲を体験し、疎開先の愛知県岡崎市でも被害に遭った。これまで何度も戦時中の話を聞かせてくれた。私は22歳。祖母に改めて話を聞いた。(本社社会部・今関悠也) 祖母が空襲を体験したのは東京都板橋区に家族7人で住んでいた14歳の時。1945(昭和20)年の桜が咲き始める頃だったと話してくれた。深夜に空襲警報が鳴り響いた。 「飛び起きて畳の下に掘った防空壕(ごう)に入ったんだ。しばらくして外に出たら北西の住宅地が赤く染まり、火がこちらに迫ってきた。ここにいてはまずいと逃げた」 祖母は家族と一緒に避難所に走った。でも祖母の父親、私の曽祖父は消火活動のために家に残った。 「道は逃げ惑う人でいっぱいだった。本当に怖かった。家が燃えなくてよかった」
数日後、祖母は池袋駅前にいた。一面の焼け野原になっていた。家族とよく買い物に来ていたデパートも焼失していた。 「歩いていたら近くにいた人が防空壕を指さし、『中に遺体が残っているんだ』と震えた声で話しかけてきて…。私は手を合わせた。もし、家の防空壕にとどまっていたら、私たちも同じように死んでいたかもしれない」 戦争で安全な場所はないと感じた。その時、祖母が亡くなっていたら、自分は今いなかったと思うと恐ろしい。 5月になり、祖母は母親や弟、2人の妹と親類がいる愛知県岡崎市へ疎開することになった。駅はどんな様子だったのか。 「東京を離れる人たちでごった返していた。空襲で家族や家を失ったんだろう。力なく座りこんでいる人もいた。父が見送りに来て『元気でいてくれよ』と声を絞り出した。もう会えないかもしれないと思うと私は不安だった。妹と弟を心配させないように涙は我慢したんだ」 列車の中はすし詰めで蒸し風呂のようだった。家族5人で通路に座った。岡崎市まで相当な時間がかかったのではないか。