年長者のダサさを糾弾していた世代が年老いて…「団塊」高齢者がガラリと変えた「老いの表明」
「戸惑って当然」という姿勢
中野もまた、著書『ほいきた、トシヨリ生活』(文庫版・2022年/親本の『いくつになっても トシヨリ生活の愉しみ』は2019年刊行)の中で、「いい気なもんで、歳を取ったなあという感慨にひたることはめったになく」「なんだかスラスラスラスラと日々が経ってしまったのだった」と書く。はたまた、「私は老いというものをあんまり実感できなかった。ピンと来なかった。悪い冗談としか思えなかった」とも。 「バアサン・ファッション」という章を読めば、コム デ ギャルソンやミナ ペルホネンを着こなす著者に、トシヨリ感は薄い。南伸坊と同様、本人に「おじいさん」「おばあさん」の自覚はないが年齢的にはトシヨリという、新しい高齢者の登場を感じさせるのだ。 高齢になっても、おじいさん、おばあさんの自覚を持たなかった人は、昔からいたのだとは思う。しかし昔の人々は、いつまでも若さの残滓(ざんし)を心中に残していることを恥としていた気がしてならない。 昔の人々は、おじいさん、おばあさんの年になったら、あえて老人感を強く押し出していた。その年齢らしさ、男らしさ、女らしさといったものを遵守すべきだった時代の六十代は、本当は思っていたとしても、 「私、まだ若者のつもりでいるんですよね」 とは言えなかったのではないか。 しかし敗戦で全ての価値観ががらりと変わった時代に育った団塊の世代は、男らしさ、女らしさといった「らしさ」を軽視するように。同じように、年をとってもその年齢らしさに違和感を持っていることをさらっと口にできる軽み、というよりは正直さを身につけることとなった。 団塊の世代が前期高齢者となった時にエッセイにおいて示したこの姿勢は、後の老い本業界に影響を与えているように思う。すなわち老人達は、「我々は、老いを受け入れられているわけではない」ということを、この頃から表明するようになったのだ。 老いエッセイにはしばしば、 「老人になるのは初めてなのだから、私だって戸惑っているのだ」 といった記述を見る。昔の老人は、「生まれた時から老人をやっていました」といった泰然とした態度だったが、現代の老人は、「こちとら老い素人なのだから、戸惑って当然」という姿勢。そのような繊細さを老人達がさらけ出すようになったのも、団塊の世代の影響があるのかもしれない。 後期高齢者となりつつある団塊の世代は今も、自分達がおじいさん、おばあさんになったとは思っていないであろう。そんな彼等はきっと、90歳になろうと、100歳になろうと、老いに対して初々しい姿勢をもってエッセイを書き続けるに違いない。 * 酒井順子『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)は、「老後資金」「定年クライシス」「人生百年」「一人暮らし」「移住」などさまざまな角度から、老後の不安や欲望を詰め込んだ「老い本」を鮮やかに読み解いていきます。 先人・達人は老境をいかに乗り切ったか?
酒井 順子