「土佐の出来人」と呼ばれ、農兵“一領具足”を総動員して四国統一を果たした武将【長宗我部元親】とは?
長宗我部元親(ちょうそがべもとちか/幼名・弥三郎)は、天文8年(1539)、土佐・岡豊城(おこうじょう/高知県南国市)に父・国親(くにちか)の嫡男として生まれた。祖父・兼序(かねつぐ)の時に滅亡の危機に瀕した長宗我部家であったが、曲折を経て難を乗り切り、土佐(とさ)の統一に向かう矢先の誕生であった。いわば元親は、長宗我部の悲願達成を宿命として生まれてきた子であった。 しかし、元親は背だけは高いものの、生まれつき色白で痩せ形、性格も柔和そのもの。内気で家臣と会っても挨拶が返せないようなおとなしい子どもであった。父・国親は「うつけ者ではないか」と疑ったほどだが、家臣団からも「姫和子(ひめわこ/女のような男児)」と陰口を叩かれた。このためか、普通なら15.6歳の元服の頃に形ばかりであっても「初陣」を果たすものだったが、元親の初陣を、国親はためらい続けた。そして3位録3年(1560)5月、22歳になっていた元親はやっと初陣を果たすことになった。しかも弟・親貞と同時の初陣である。 初陣の相手は、祖父・兼序の仇である本山茂辰(もとやましげとき)である。本山は、土佐の豪族連合の中心で、過去に岡豊城を攻撃し、その際に兼序は自害して果てている。本山茂辰は、2千の兵を率いて出陣し、国親と元親は1千の兵で迎え撃った。初陣に際して元親は、重臣の1人・秦泉寺豊後に大将としての心得を尋ね、さらに「槍はどう使えばいいのか」と聞いた。呆れながらも豊後は「槍はただただ敵の眼を突けばよいのです」と教えた。 長宗我部の精鋭50騎を率いた元親は、大勢の敵の中に突っ込んだ。斬り掛かってきた2人の敵兵を槍で突き刺し、味方に対して「決して退くな」と大声で命じて、2倍以上の大軍に立ち向かっていった。元親の奮戦で、長宗我部軍は本山軍を打ち破った。「姫和子」の大変身であった。これを見て安心したように父・国親は病死した。 家督を継いだ元親は本山氏を葬り、さらに残る勢力である安芸氏と一条氏を配下に置いて念願の土佐1国を統一した。初陣から15年後のことであった。元親は、耕地の少ない土佐ではこれ以上発展は無理と悟り、四国全土の統一を目指した。 当時、土佐の周辺の阿波(徳島県)・讃岐(香川県)には三好氏が君臨し、伊予(愛媛県)には西園寺氏や河野氏などが割拠していた。元親は、この4つの国の境の地域である空白地を確保すると、ここを拠点として各地に進撃した。その過程で、三好氏からの援軍を求められた織田信長が、横槍を入れてきた。信長の重臣・明智光秀(あけちみつひで)を窓口として元親は信長との交渉を進めた。光秀の家老・斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘が元親の正室という関係もあった。それでも信長は、元親を目障りな存在として除こうとする計画を立てた。その延長上で「本能寺の変」が起きた。この変の原因を、光秀と元親との関係とする有力な説もある。 結果として四国統一を果たした元親であったが、その後の天下人・豊臣秀吉に屈してしまう。平素は田畑に出ているが、合戦となれば具足一領・馬一匹で戦場に向かう「一領具足」を駆使した元親は、その後も秀吉のために戦い続ける。信長であったら、四国全土を取り上げられ、命もなかったはずが、秀吉は元親に土佐一国の安泰を認めたからであった。「姫和子」から「土佐の出来人」となった長宗我部元親は、慶長4年(1599)5月、京都・伏見で病没した。61歳であった。
江宮 隆之