「この木なんの木」と深い縁、ポール与那嶺の半生 ポール与那嶺さんにインタビュー(前編)
球団のチームメイトは戦争で家族を失ったりして、サンフランシスコでも日本でも、最初は嫌われていたわけです。大変だったと思いますが、そこは彼なりに根性を持ちながら職人のように練習して、いい成果を出すようになって、次第にどちらでも好かれるようになったんですね。 彼も、日本でうまくいかなければハワイに戻るしかないわけですよ。当時の野球選手は今の大谷翔平選手みたいな世界じゃない。1957年にセ・リーグでMVPを獲ったときの賞金が自転車ですよ。
あの時代は広島の市民球場で帽子を回してお金を入れてもらって、それが報酬になるような。生活のため、家族のために必死だったと思います。 ■父は野球のヒーローだった ―――お祖父様のハングリー精神と、お父様のファイト、そうした家風、家庭環境で育ったことはどのように、ご自身に影響していると思いますか。 私自身、野球小僧で大学2年まで野球をやってきたので、親父はやはり、親父というよりも野球のヒーローですよね。実際、一緒にいる時間よりもテレビや新聞雑誌で見ることのほうがずっと多かったですから。
彼が他界したときも、最初に感じたのはファンが可哀想だということでした。日系人として初めて全米フットボールチームに入った父は、カリフォルニアにいた日系人のヒーローでした。「社会的責任のある存在」というイメージがあり、それは私にとってものすごく意味のあることでした ―――お父様の存在の大きさもありますが、ポールさんのキャリアを振り返ると、竹中征夫さんというお師匠さんがいらっしゃいますね。「昭和のジョン万次郎」「サムライ会計士」と呼ばれ、1980年代以降、対米進出を目指す日本企業の伴走者として大きな足跡を残されています。2023年11月に亡くなられましたが、竹中さんはどのような存在だったのでしょうか。
大学3年のときに就職活動をしていた私のところに竹中さんから突然電話がかかってきましてね。私は当時8大会計事務所のプライスウォーターハウスに就職が決まっていたのですが、竹中さんが旅費を出すから一度ロサンゼルスに来て一緒に食事をしろというので、ただで行けるなら、という感じで応じたのです。 彼はカリスマ性が非常に強い。彼自身はアメリカ国籍だけど、日本人ということに対するプライドが非常にありました。 「アメリカ人社会の中で日本人として頑張っているんだ。君も自分のルーツに必ず誇りを持って、アメリカと日本の架け橋になりながらお客さんを手伝いなさい」と。