最高齢98歳のバスケ競技者が語る学徒出陣の記憶「あと少し長引けば死んでいたかも」 スポーツを楽しめる平和に感謝
国内最高齢のバスケットボールプレーヤーの在間弘さんは、98歳になった今も札幌市内のチームに所属し練習に汗を流す。競技歴は86年。太平洋戦争中に「敵性スポーツ」として厳しい目が向けられる中でも、シュート練習を欠かさなかった。 原爆の日、学徒動員を休み生き残った。後ろめたさから「自分だけ幸せになっていいのか」と苦悶し続けた
10万人以上の学生が戦争に送り込まれたとされる「学徒出陣」。若かりし頃の在間さんは士官として戦地に送り込まれる直前に終戦を迎えた。「あと少し戦争が長引いていたらここにいなかったかもしれない」。戦時下の記憶を振り返る一方、スポーツを楽しむことができる平和のありがたさを実感している。(共同通信=中西慧) ▽平均均年齢73歳のチームで「私たちの目標」 9月下旬、地域の高齢者が中心のバスケチーム「札幌ロートルズ」の練習が札幌市内の小学校で開かれていた。「いーっち、にぃー」。準備体操中、体育教員だった在間さんの大きな声が練習場に響く。試合には参加しないものの、パスやシュートの練習では機敏な動きで周囲を驚かせる。 札幌ロートルズの平均年齢は73歳。仲間の貞広民彦さん(77)は「同じ高齢者として存在に勇気づけられる。来てくれるだけでありたい」。井口一さん(79)は「この年齢で練習に参加できるのはすごい。私たちの目標であり、チームのシンボルだ」とほほ笑んだ。
在間さんは1925年北海道和寒町で生まれた。生まれつき体が弱く、12歳で小学校の教員に「やれば背が伸びる」と勧められ、バスケを始めた。その教員に憧れ、1940年には札幌師範学校(現北海道教育大札幌校)に進学した。師範学校で所属したのもバスケ部だった。 ▽「敵性スポーツ」でも休み時間に練習 1941年12月に太平洋戦争が始まり、戦況が悪化すると師範学校の生活も大きく変わった。男子学生は徴兵で人手不足になった農家を手伝う「援農」に、女子学生は工場での勤労動員にかり出されるようになった。 在間さんは「授業を受けるよりも農家の手伝いをする時間のほうが多くなってしまった。食料も乏しく勉強にも取り組めない。いろいろな面で厳しい時代だった」と振り返る。 米国発祥のバスケにも「敵性スポーツ」として厳しい目が向けられた。「バスケットボール」という名前も日本語に言い換えた「籠球」と呼ばれるようになり、校内でも次第に柔道や剣道が推奨されるようになった。1943年からは大会も中止になり、部の活動もできなくなった。在間さんは「試合がなければ楽しみもない。それが一番つらかった」と唇をかむ。