最高齢98歳のバスケ競技者が語る学徒出陣の記憶「あと少し長引けば死んでいたかも」 スポーツを楽しめる平和に感謝
いくら練習しても成果を発揮できない日々。そうした中でも休み時間を使ってシュート練習に取り組んだ。「私にとってバスケは生きがいだ。これだけは取られてたまるかという気持ちが強かった」。 ▽アルバムに並んだ勇ましい言葉 大学や旧制高校などの学生には26歳まで徴兵猶予が認められていたが、1943年、戦局の悪化を受けて停止された。その結果、法文系を中心に20歳以上の学徒が兵役に就いた。 1945年、在間さんも陸軍の「特別甲種幹部候補生」として仙台の予備士官学校に入学した。戦争の長期化により前線で指揮する将校が不足したため、高等教育を受けた学生を短期間で士官に育成するための制度だった。 士官学校に入る直前、在間さんが記念に作ったアルバムが北海道教育大札幌校の同窓会館に保管されている。バスケ部員や師範学校の同級生らが書いた寄せ書きには出征を鼓舞する「米鬼撃滅を期する」といった言葉や、「終に別れか」「靖国の社頭で再会しませう」など別れを惜しむメッセージが並んでいた。
「みんな勇ましい言葉を使っているだろう。戦時中だったからね」。若かりし頃の写真やバスケ部の集合写真を収めたアルバムを、在間さんは懐かしそうに1ページずつをめくっていく。 士官学校では遺書を書いて両親に送らされた。同じように学徒出陣した先輩には沖縄やレイテ島で戦死した人もいた。戦況は悪化の一途をたどり「勝てない」という雰囲気が周囲にも広がっていた。在間さんは「戦地に送られれば必ず死ぬ。先輩たちのあとに続くしかないと思っていった」と当時の覚悟を思い起こす。 8月15日に終戦を迎えた時の記憶はあまりないが、異様な光景が強く印象に残っている。それまで威張っていた教官たちが狂ったように校内の竹林を切り倒していったのだ。「敗戦のショックがよほど大きかったのだろう。通常の精神状態とは思えなかった。ただ彼らが気の毒だなという気持ちが強かった」 ▽平和への願い 北海道へ戻り、師範学校を繰り上げ卒業した後は道内で体育教員になった。16年間勤務した旭川商業高ではバスケ部の顧問として女子部を全国大会に3回導いた。その後もバスケを続け、今や日本バスケットボール協会に登録している競技者の中で最高齢だ。 在間さんは今「スポーツを楽しむ中で改めて平和のありがたさを感じている」と語る。出征して亡くなった先輩らを「当時は称賛されたが、時代がそうさせたのだろう。彼らは戦争の犠牲者だ。指導者らを恨むしかない」と悼む。
最近気がかりなのはロシアによるウクライナ侵攻だ。先輩たちの命を奪った戦争の記憶と重ね合わせ「あんなに若い人たちが自分から戦地にいきたがるなんて…」とニュースを見るたびに心を痛めている。「為政者のために国民が戦わせられるなんてかわいそうだ。戦争がなくなる時代を願っている」と静かに語った。