野木亜紀子が語る、長崎原爆は「避けては通れない話だった」。『海に眠るダイヤモンド』インタビュー
長崎原爆をカトリック教徒の視点で描いた4話。「避けて通れない話だった」
―第4話では、長崎の原爆投下がカトリック教徒である百合子の視点から描かれました。長崎はキリスト教の布教の中心地でしたが、原爆被害とキリシタンの人々の記憶を描くにあたって、どんな思いがありましたか? 野木:そもそも、1955年からの長崎の端島を舞台にいまドラマを描こうとなったとき、原爆の話をしないという選択肢はありませんでした。第4話は1958年の話なので原爆投下から13年経ってはいるんですが、その傷はまだ生々しくある。 当時の端島にもカトリックの方たちが何家族かいて、ドラマで描いたように、毎週日曜日は長崎から牧師さんがいらっしゃって部屋でミサをしていたそうです。さらに、さだまさしさん演じる「説教和尚」の宗教や宗派を問わない、禅宗をもじった「全宗」のお寺があり、キリスト教徒の方のお葬式をしたこともあるそうです。このお寺は端島らしい特色の一つなので、描きたいというのがまずありました。 野木:広島の被害については原爆ドームもあるし、爆心地がどこだったかなど比較的知られていると思いますが、長崎は浦上天主堂という教会の付近が爆心地であったことがそこまで知られていないと思います(※)。ドラマというかたちで記録に残すことに意味があると私は思っているので、端島にはお寺があり、全宗で、そして戦後十数年しか経っていない長崎が舞台の物語であるとなったとき、避けて通れない話だと思いました。 (※)浦上天主堂は爆心地から北東へ約500mの位置にあり、原爆によってわずかの堂壁を残しほとんどが倒壊、焼失した。旧天主堂の遺構や、がれきから見つかった頭部だけが焼け残った「被曝マリア像」は現在も保存されている。
「沈黙」というタイトル、百合子と和尚のシーン。「私たちが今後どうするか」
―第4話のタイトルである『沈黙』は、隠れキリシタンへの迫害を描いた遠藤周作さんの小説が由来になっているのでしょうか? 野木:もちろん念頭にはありましたが、遠藤周作さんの小説はざっくりと言うならば「神は沈黙している」という話ですよね。そして、「沈黙しているけれど、つねにそばにいて共に苦しんでいる」という悟りが描かれている。今回の物語の場合は、それに加えてみんなが黙ってしまうというか、語り得ない戦争の傷を描くという意味でも「沈黙」というタイトルをつけました。 進平(斎藤工)も戦争のことを語らないし、一平(國村隼)にも語れない思いがある。鉄平(神木隆之介)や幼馴染たちも同じです。朝子(杉咲花)は当時、鉄平たちより幼く、原爆のキノコ雲を見ていないし、覚えていない。自分のちょっとしたいたずらがなければ違う未来があったのではないかと百合子が思っていることを知らない。百合子の被爆は島内で隠されているし、幼馴染たちもいまさら言うことができない。そういった意味での「沈黙」でもあります。そして、私たちだって語るべきことを語れていないじゃないかという皮肉も少し入っています。 ―さだまさしさん演じる和尚と百合子のシーンが印象的でした。「神は何もしてくれない」と嘆く百合子に対して、和尚は「私たち大人の罪だ」と代わりに謝ります。原爆投下の直接の当事者ではない和尚が、いまあなたが苦しんでいるのは私たち大人の責任だと代わりに謝るのはすごいことだと思いました。 野木:いろいろな理由はあるけれども、結局その状況をつくってしまったわけですよね。私たちだって、いまやっていること次第では、未来の子供たちに謝らなきゃいけない状況をつくってしまうかもしれない。その意味では、これからにかかっています。 4話はなかなか私だけでは背負いきれないというか、限界があるなとも感じていました。百合子が、浦上に原爆が落とされたのは、苦難を与えるため神に選ばれたからという当時提唱された説について話しますよね。それを頭から否定できるかというと、難しいところもあって。その説がなぜ唱えられたのか考えると、当時の信徒の方たちは、そう思わないとやっていられなかった。彼らの心を救うために、そう唱えたのだと思います。 ただ、そこから少し引いて考えたとき、「神の御業」としてしまうのはどうなのか……原爆を天災にしてしまっていいのか。原爆を作ったのは人間で、落としたのも人間で。ではなぜそうなったのかというと、実験的に原爆を投下したという点ではアメリカに責任がありますが、そこに至るまでのたくさんの背景がある。何がそれを引き起こしたのか。被害は受けたけど、加害もあったじゃないか。それは両輪として反省すべきことではないのか。そういったことを考えていました。 広島にヨハネ・パウロ2世が訪問したとき、原爆は人間の起こした惨事であると明言しているんですよね。聖職者としてきちんと言っている。だから、私だけでは背負いきれない百合子と和尚のシーンは、大司教の後押しを得ながら書きました。 大人の信徒はともかく、まだ信仰が浅い子供だった百合子にとって、到底納得できなかったと思うんですよね。大学にも進んで、勉強すればするほど、外を見れば見るほど、自分が置かれた状況を理不尽に感じていったのだと思います。大人たちはともかく、子供には本当に責任がない。ただそこに生まれて、生きていただけなので。 ―大人として「代わりに謝る」というのは、なかなかできないことだと思います。 野木:でも、本当に私たちが今後どうするかですよね。いまガザで起きていることだって誰も止められていない。そこで亡くなっている子供たちには謝りようもないし、百合子に対しても、どんな言葉をかけていいかわからないですよね。謝るだけでいいというわけでもない。 ―たしかにそうだと思います。和尚を演じるさだまさしさんは長崎出身で、炭鉱夫の人たちも長崎や九州出身の俳優をできる限り起用しているとのことですが、キャスティングは野木さんの希望もあるのでしょうか? 野木:長崎弁も自然なほうがいいですし、それができるならそうするに越したことはないですよね。プロデューサーも同じ考えです。 沖縄を舞台にした『フェンス』のときも沖縄出身の登場人物の役は、50人以上の沖縄出身の方に演じていただきました。ただ、今回は舞台が端島であり、端島はいろんなところから集まった人たちが暮らしている島なので長崎弁だけじゃなく、出演者にはなるべくご自身の地元の言葉を話してもらっています。鉄平は、親友の賢将が親の方針で標準語なこともあり、大学生活時代を経ていまは標準語中心になっているというバックボーンです。 さだまさしさんには、引き受けていただけなかったらどうしたらいいかわからない! という状態でした。長崎出身であることはもちろん、原爆のことや反戦に対して思いをお持ちの方ですし、大人から子供までみんなの相談役になれる人がほかに考えられなかった。オファーは4話の台本までができた段階でお渡しして、引き受けていただけて本当に嬉しかったです。 ―最後に、今後の展開について期待してほしいことについて教えてください。 野木:セリフ以外の表現が多いドラマなので、「ながら見」ができない、見ようによっては難しい作品になっているので、真剣に見てくださっている皆さまには感謝しています。端島の最後までを描いてゆくので、そこから何を受け取ってもらえるか。どこまで伝わるのかわかりませんが、現代パートとのつながりも含めて楽しんで見ていただけたら嬉しいです。
インタビュー・テキスト by 生田綾