「野球は悪」の誤解をといた脱北者たちの挑戦
北朝鮮から逃れた脱北者たちで作る野球チームがソウルにある――。そんな話を耳にし、少し驚いた。というのも、米国発祥の野球は、北朝鮮では「資本主義のスポーツ」として忌避されているとの説を聞いたことがあったからだ。気になって取材を始めた。 【写真】エースの投球練習 北朝鮮の野球事情に関する情報は少ないが、皆無ではない。新潟市で1991年に開催された国際大会に北朝鮮代表チームが出場しており、2013年には北朝鮮メディアが国内で野球大会が開催されたと報じた。また17年には米メディアが衛星写真に基づき、西部・南浦(ナムポ)市に球場があると伝えている。ただ、野球をする人は極めて少数のようだ。 そんな北朝鮮から韓国に来た人たちがなぜ野球チームを結成したのか。運営する社団法人「新韓半島野球会」の事務所を訪ねると、金成日(キム・ソンイル)理事長(44)が笑顔で出迎えてくれた。自身も脱北者だ。 「北朝鮮では野球をしている人を見たこともなかったが、野球といえば『悪のスポーツ』だと思い込んでいた」。北朝鮮で見た映画の強烈なイメージがあったためだ。 「韓国に来てユーチューブで見つけた」。金理事長は、その北朝鮮映画の映像をスマートフォンで見せてくれた。日本植民地時代に今の韓国南部・光州で起きた日本当局への抗議運動を題材にした80年代製作の作品だが、なぜか野球の場面が多い。 ◇「凶器を使う怖いスポーツ」 その内容は荒唐無稽(むけい)だ。試合では、判定に抗議した選手を審判が突然、背負い投げする。その瞬間、バットを武器にした大乱闘が始まるのだ。和服や野球のユニホーム姿の日本人がバットを手にし、朝鮮人の女子学生に嫌がらせする一幕もある。 金理事長はこう振り返る。「野球といえば『バットという凶器を使う怖いスポーツ』との印象だった。北朝鮮では私の世代の多くはこの映画を見ている」。この映画は反日教育の一環だったとみられるが、野球に「悪」のイメージを植え付けるために製作されたかどうかは不明だ。金理事長は「韓国に来てプロ野球を観戦し、ようやく野球への誤解が解けた」と笑う。 自由を求めて韓国に脱北したのは34歳の時。医薬品の袋詰めの仕事を始めたが、苦労の連続だった。仕事のことで同僚に質問をすると「そんなことも知らないのか」と笑われた。職場で孤立し、難しい仕事を押しつけられることも。「ストレスが多かった」 ◇韓国社会になじむ契機に 「韓国社会に溶け込めない」。悩んでいたころ、在日コリアンの実業家、金賢(キム・ヒョン)さん(52)らと雑談をしていて、張本勲さんら朝鮮半島にルーツがある元プロ野球選手の話題になった。「脱北者たちの野球チームを作るのはどうだろう」。そんなアイデアが金賢さんから出た。金理事長が回想する。 「韓国プロ野球を観戦した時に、観衆が一体となって応援する様子に、『野球』という共通の話題があれば韓国社会になじみやすいと感じた。脱北した青少年にとっても、野球をすることがプラスの経験になると考え、チームを作ろうと決めた」 周囲の脱北者の若者らを誘い、野球指導経験のある韓国人の協力も得た。18年に15人でチームを結成し、練習を積んだ。チーム名は「チャレンジャーズ」。脱北というチャレンジ(挑戦)に成功した選手たちにふさわしい名だ。少しずつ上達し、草野球チームなどと試合を重ねた。「こうした活動を通じて、韓国人との交流が増えた」と金理事長は言う。 ◇13歳で脱北、野球のとりこに 記者は後日、練習場のグラウンドを訪ねた。 「何で次の塁を狙わないのか!」。一塁ベースにたたずむ選手に、金済逸(キム・ジェイル)監督(60)の厳しい声が響く。現在のメンバーは10代~20代前半の15人。脱北者に加え、北朝鮮から逃れた両親の間に中国で生まれた人もいる。北朝鮮で野球経験があった選手は皆無だ。 エースはキム・ムンヒョクさん(19)=仮名。元球児の記者は、捕手役を買って出た。サイドスロー気味のフォームから投じられる直球。わずかにシュート回転をしながら「ズバッ」と鋭い音をたててミットに収まった。野球歴2年とは思えない球筋だ。 8歳のころ、両親が先に北朝鮮から逃れた。その5年後、母の知人に手を引かれ、中国経由で韓国にたどり着いた。今は数多くの脱北者を受け入れている「黎明(ヨミョン)学校」(ソウル市)の高等部3年だ。「北朝鮮では野球というスポーツを聞いたことも見たこともなかった」とキムさん。だが友人から勧められて始めると、その魅力にとりつかれた。「投手はとても面白くて、やりがいがある。毎朝毎晩、練習している」と笑顔を見せた。「大学に進学し、野球も続けたい」と意気込む。 この日は、黎明学校教師チームとの練習試合があった。ヒット性の打球をチャレンジャーズの選手が好捕し、双方のチームから拍手がわく場面も。生き生きとした表情から、野球を心底楽しんでいる様子が伝わってきた。脱北者の両親の間に中国で生まれ韓国に来たユ・ジュンヨンさん(14)は「将来はプロ野球選手になりたい」と夢を語った。 今年7月には、チーム結成当初からの夢が実現した。それは、野球の本場・米国への遠征だ。篤志家の寄付などで資金面のめどがたち、出発前には脱北者への支援を重視する尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が主催する「出陣式」で激励を受けた。 米国では大リーグの試合を観戦し、韓国系米国人チームとの親善試合では勝利をつかんだ。キムさんは「現地で知り合った人とインスタグラムで交流を続けている。自分の世界が広がった」と語った。 脱北者が韓国社会になじむ契機になれば、と始めた野球チーム。だが選手たちの視線は、もっと広い世界に向かいつつある。【ソウル支局長・福岡静哉】