栃木県に残る「茂木城」は「モビリティリゾートもてぎ」まで15分ほどの山城だった
綺麗に整備され、見どころもたくさん
これまで数多くの山城を巡ってきたところ、ひっそりと山奥や里山に潜み残っている遺構だったり、住宅地に看板だけが建っていたり、畑や学校に転用されていたりと色々なパターンがありましたが、今回訪れた「茂木城跡」は立派な公園として整備されていました。哀愁を感じさせる風情のようなものはありませんが、とても綺麗な「城山公園」は散策しやすい城跡でした。 【画像】栃木県の茂木町に残る「茂木城跡」を画像で見る(15枚)
現地に設置された解説板も立派なもので、そこには城の歴史が書かれていました。それによると1192年、鎌倉幕府の有力御家人の八田知家(はったともいえ)が奥州藤原氏討伐の際の功により、源頼朝から下野国茂木郡(しもつけのくにもてぎぐん)を賜り、三男の知基(とももと)にここを守らせたとあります。 知基はここ「桔梗(ききょう)山」に城を築き、茂木氏(もてぎし)を名乗ります。以後、400年16代にわたり茂木氏の居城となり、1610年に細川興元(ほそかわおきもと)によって廃城されるまで続いたそうです。
もう少し詳しく調べてみると、1556年に茂木氏は佐竹氏(さたけし)に攻められ臣従します。1585年に北条氏(ほうじょうし)と結城氏(ゆうきし)らの連合軍により落城し、その後、佐竹氏の援軍を得て奪回。1594年、茂木氏16代の治良(はるよし)が佐竹氏の命により「小川城」(茨城県小美玉市小川)に移り、茂木氏の城の支配が終焉。 徳川の時代である1610年、佐竹氏は秋田に移封し、細川忠興(ほそかわただおき)の弟、興元(おきもと)が茂木に入り、城下の盆地に陣屋を設けて「茂木城」を廃した、ということが分かりました。茂木氏は武勇の士としても知られ、とくに南北朝時代に活躍していますが、その間に落城もしているそうです。
「茂木城跡」は耕地や山林として利用されたと言いますが、現在は公園として市民の憩いの場になっていました。空堀や土塁、池などがしっかり残されています。駐車場に近いところにある中央の広場は「千人溜(せんにんだまり)」と呼ばれ、合戦の際には1000人もの武士が鎧を脱ぎ着する広場だったのだとか。 さらに歩みを進めると池が見えてきました。ここは「鏡が池」と呼ばれ、籠城の際に役立った貴重な水源だそうですが、その池には悲話が残っています。 城主の美しい姫君が流行病にかかり、顔に酷いアザが残ってしまいました。殿はそれを憐れんで城内の鏡を全て処分します。しかし姫がこの池の水面に映る自分の顔を見て驚き、悲観のあまり池に身を投げてしまいます。そののち、人々はこの池を「鏡が池」と呼ぶようになりました……という話でした。