ブリットポップに乗ってイメージアップ、選手はセレブ化。転換点は1990年ワールドカップ 【プレミアリーグ 巨大ビジネスの誕生③】
▽プレミア開幕後も伝統のスタイルは変わらず 旧1部リーグが独立する形でプレミアリーグは1992年8月に始まったが、ピッチ上で繰り広げられるプレーの水準がすぐに変わることはなかった。開幕節に出場した外国籍選手は前シーズン王者リーズにいたエリック・カントナ(フランス)やマンチェスター・ユナイテッドのピーター・シュマイケル(デンマーク)ら13人だけで、22チームの監督は全員イギリス人だった。 ルソー氏は1993年に移籍したブラックバーンで1994~95年シーズンに優勝を果たしたが、レギュラーの外国人はノルウェー代表へニング・ベルグだけで「まだ古風なイギリス式のチームだった」。ボールを持てばゴールに素早く向かう伝統のスタイルに、洗練された技術や戦術が持ち込まれるようになったのは数年後のことだった。 ▽「ボスマン判決」で外国人流入に拍車 イングランド代表が出場を逃した1994年W杯アメリカ大会後にドイツ代表のユルゲン・クリンスマンがトットナムに加入して一躍人気者となり、1995年には世界最高峰だったイタリア1部リーグ(セリエA)からオランダ代表のデニス・ベルカンプがアーセナル、ルート・フリットがチェルシーに移籍。同じ年の12月、契約を満了した選手が他の欧州連合(EU)内のクラブへ自由に移籍することを認める「ボスマン判決」が出ると、大物外国人の流入にさらなる拍車がかかった。
イギリス特有のフェアで激しい攻防の中、外国籍のスター選手が華麗な技術と創造性で違いを生む―。プレミアリーグの魅力を一気に高めた組み合わせは、この頃から各チームに本格的に広まっていった。 ▽若者文化と相乗効果 リーグの活性化と時を同じくして1990年代の半ばはイギリス文化にも新たな風が吹き始めていた。音楽界ではアメリカで人気だったグランジロックに対抗し、楽曲やファッションでイギリスらしさを前面に打ち出したアーティストが若者の支持を集めて「ブリットポップ」の総称でブームとなった。 その代表的なバンドのオアシスのノエルとリアム・ギャラガー兄弟はマンチェスター・シティー、ブラーのデーモン・アルバーンはチェルシーのユニホームを好んで着用したことで、多感な若者にサッカーがおしゃれな存在であることを広く浸透させた。 政界でも野党・労働党のトニー・ブレア党首が43歳の若さで首相に就任。ニューカッスルのファンであることを公言し、サッカー界や音楽界との交流をアピールしてフレッシュさを印象づけた。若者文化を中心に明るい時代の到来を予感させ「クール・ブリタニア(格好いい英国)」というキャッチフレーズも生まれた。