ポストコロナの中国 ある家族の苦闘(1) 強まる監視・抑圧 涙の再会から3年 親子3人は再び離ればなれに…
しかし、一歩外に出ると、また大勢の男たちに囲まれた。大きなスーツケースをコロコロと引っ張る泉泉くんの周りを、大柄な男たちが取り囲み、無言でついて行く異様な光景。 それでも3人、家族で一緒に暮らす場所を探して、さまよい続けた。
■「教室」にも男たちが現れ…息子からのつらい問いかけ
しかし、当局が放った禁じ手に、全璋さんの闘志は砕かれた。 王全璋さん 「彼らは息子に手を出しました」 泉泉くんの通学路に、男たちが現れた。学校に通う泉泉くんに十数人がつきまとい、写真や動画を撮影。学校に着いてからも周囲を徘徊(はいかい)し、教室にまで写真を撮りに来たこともあった。 まもなく学校側は、泉泉くんの受け入れを拒否。その後、何度、転校を繰り返しても、すぐ通学を拒否された。ある日、泉泉くんは父に、こう問いかけた。 「パパは、なぜ人権派弁護士なの? ぼくは、なぜ人権派弁護士の家に生まれたの?」 この状況に、全璋さんの心は壊れる寸前だったと話す。 「子どもの通学まで迫害する彼らと一緒に死んでしまいたかった。でも、命がけで闘っても私は処罰され、彼らは別の人間を送り込んでくるだけです。自分はわが子すら守れない無能な人間と思いました」
■家族3人 再び離ればなれに…妻と息子への“圧力”和らげるため
母・文足さんは、泉泉くんを連れて北京を離れ、実家がある湖北省に移った。一方、全璋さんは北京に残ることを決めた。自身が北京に残れば、湖北省に移った妻と息子への圧力は和らぐと考えたからだ。家族3人の団らんは、わずか3年で再び失われた。 王全璋さん 「私たち家族にとって、普通の暮らしは“ぜいたく”なんでしょう」 全璋さんは、3人が再び北京で暮らせるようになるまで、裁判所に訴えるなど、あらゆる手段で闘うつもりだという。 かつて自分が捕らわれていた時、懸命に闘ってくれた妻と息子。今度はパパが“怪獣”を倒して、家族の絆を奪還する――。
■「反スパイ法」先走る中国当局
中国では、以前も人権派の弁護士や学者が当局の監視を受けることはあったが、かつて「天安門事件が起きた日」など、政権にとって“敏感な日”の前後に限り、外出を阻まれるケースが多かった。そして「ゼロコロナ」期間中は新型コロナ対策を口実に、住む街からの移動制限を課すのも常とう手段だった。しかし、ゼロコロナ政策を転換した翌年の2023年、当局は王さん一家を北京から排除しようと圧力を強めた。 同じ頃、北京在住の著名な人権派元弁護士の余文生さんも、妻とともに拘束された。両親が同時に消えた後、余文生さんの長男は自殺を図った。なんとか一命は取り留めたが、2人の裁判もまだ始まっていない。2人がわが子の元に戻れる日は、まだ見えない。 なぜ当局は突如、強硬手段に出るようになったのか? 当時は、ドイツ外相の中国訪問があり、北京のドイツ大使館でもイベントが開かれる予定で、当局は元弁護士らがイベントに招待され、中国の人権抑圧を語ることを警戒したとみられる。 23年7月には「反スパイ法」も改正され、中国の市民が外国とのつながりを持つことへの監視も強化された。当局は、人権派として名前が知られた王さんらが、北京の外交関係者やメディアに接触することを嫌い、圧力を強めたとみられる。 こうした状況下で、家族と二度と会えなくなると覚悟しつつ、海外に脱出する人々もいる…。
<「ポストコロナの中国 ある家族の苦闘 (2)」へつづく>