日本記録保持者が“無名”だった中学時代 私立よりも公立志望、苦労した野球以外の課題
甲子園の常連だった銚子商への進学熱望…一般入試で合格を勝ち取った
市立八日市場第一中学では軟式野球部に入り、1年生から投手。「試合でも投げたし、球は速かった。結構抑えたと思うよ。だけど、強いチームじゃなかったし、無茶苦茶勝っていこうというようなチームでもなかったしね。大会に出ても1回戦か2回戦で負けたんじゃなかったかな。何かそこまで熱心にやっていない感じ。ただ集まってやっていた感じだったね」と話すが、投手として非凡なものを見せていた。 1試合23奪三振をマークしたこともあった。「中学2年(1972年)の秋くらいかなぁ。市の大会で相手も何回戦かも覚えていないけど、そういうことがあったね。でも、その試合も負けたんだよ、0-1なんかで。エラーが絡んでね」。その年、巨人・堀内はプロ7年目で26勝をマークして最多勝のタイトルを獲得。宇野氏にとって憧れの右腕の活躍も刺激になったのかもしれない。「堀内さんが晩年の頃だけど、俺は(プロで)対戦したんだよね」と、しみじみと話した。 ただし、中学時代の宇野氏は多くの高校からスカウトされるようなことはなかった。「全然だね。俺のことを知っている人もいたかもしれないけど、それほど有名ではなかったからね。横芝敬愛のセレクションみたいなのに行ってピッチングした覚えがあるくらいで、あとはなかったなぁ」。最初から銚子商に進学したかったという。「理由はやっぱりテレビで見た甲子園の魅力ですよ。あそこに出たい。そのための一番の近道は銚子商だと思ったんでね」。 銚子商は1965年夏の甲子園準優勝など、毎年のように甲子園に出場していた名門。宇野氏が中学3年の1973年も春夏連続出場を果たしていた。「でも銚子商は公立校だから、ある程度、勉強もできないと入れない。そういう面では少し苦労したけどね」。野球の実力は全く関係なし。普通に受験勉強に励み、合格を勝ち取った。「うれしかったね。落ちることも考えていたわけだからね」。甲子園への第一関門突破。この頃はあくまで投手として行きたいと考えていた。
山口真司 / Shinji Yamaguchi