大学入学への最後の課題の前に突如、立ちはだかった生物教師<河谷忍「おわらい稼業」第3回>
構成作家・河谷忍による連載「おわらい稼業」。ダイヤモンド、ケビンス、真空ジェシカら若手芸人とともにライブシーンで奮闘する、令和のお笑い青春譚。 【関連】連載第一回はこちらから AO入試の課題に取り組んでいた河谷の前に現れた白衣の男。彼が持つ「相棒」が、この課題に大きな影響を及ぼす──。
高校生活最後の事件
横長の画用紙に縦長の四角い枠が横一列に10個ほどあった。「一番左の枠を真っ白、一番右の枠を真っ黒とした場合に白から黒へグラデーションになるよう鉛筆で順に塗っていきなさい」という指示がされており、これが美大のAO入試最後の課題だった。 教卓では折れた桜の枝で自分の板書を指しながらメガネをくいと上げる白衣の男が生物の教鞭をとっていた。私はこの男が生物教師であること以外、何ひとつ知識がない。名前も知らなければ家族がいるのかどうかも、なぜ生物を教える立場で桜の枝を容赦なく折って持ってこられたのかもわからない。ただわかることといえばこの男はその枝を始めの授業から使っていて、それを「相棒」と呼んでいたことぐらいだった。 「相棒」という言葉は江戸時代に籠屋がふたりひと組で棒の端と端を持っていたことに由来している。ほんまの棒を「相棒」って呼んでどうすんねん、といった明らかに優勢状態の合コンでも誰ひとり笑わないようなツッコミは、その場にいる誰もすることができなかった。その点、私の高校生活は笑いに恵まれていたのかもしれない。 入試の課題を授業中に済ませなければならないほど期限ギリギリまでほったらかしにしてしまっていた。私はとりあえず一番右の枠をここぞとばかりに濃い真っ黒に塗りつぶした。ここにめがけて左から徐々に濃度を上げていかなければならない。左からふたつ目の枠を鉛筆で薄く塗っていく。ここを濃く塗ってしまうとのちのち取り返しのつかないことになってしまうので、できるだけ薄く薄く塗っていく。呼吸を止めながら鉛筆をかなり浅く握ると力を入れないように紙の上で鉛筆を小さく揺らすような感覚だ。 真っ白なキャンバスの上になんとなく薄いグレーのレイヤーが重なったようになったので、次の枠を塗り始めた。先ほどより少し力を入れて、ひとつ左の枠よりはほんの少し濃くなるように鉛筆を紙にこすっていく。同じことを順に繰り返していき、いよいよ右から2番目、ラストひとつ前の枠に来たところで気がついた。徐々に、徐々に濃くなるよう濃度のレベルを小さく上げすぎたせいでラストひとつ前の枠とラストの枠の濃さが全然違うものになってしまっていた。このままいくとやたらと薄いグラデーションが続いて最後のひと枠で一気に濃度が上がる。ご飯に集中しすぎたせいで、持ってきてもらってから時間が経って底にアルコールが溜まり散らかした梅酒のソーダ割りみたいな作品になってしまうと思った。いや、思ってなかった。 私は再びB2のマドラーを手にもう一度左から順番に徐々に濃くなるように少しずつ上から塗り足していった。何度も試行錯誤を繰り返してようやくきれいなグラデーションが完成した瞬間、その紙が一瞬で真っ黒になった。きれいなグラデーションを塗っていたはずなのに一色の黒に染まった紙が不思議で、なんのことやらと顔を上げると紙を覆った黒いものは桜の相棒を手にこちらをにらむ生物教師の影であることがわかった。 「こんなのは休み時間にやりなさい」 生物教師が枝で紙をトントンやると、再び教卓に戻る。しかし任務はすでに終わっている。あまりにもきれいなこのグラデーションを提出すれば入試担当も腰を抜かして「ぜひ入学してください」と向こうから頭を下げに来るに違いない。私は紙を大事に片づけようとカバンから入試書類の入った封筒を取り出そうとしたそのとき、異様なものが目の端に映った気がした。赤い。なんだ、赤いぞ。きれいなグラデーションの上に、赤い色がポツポツと虫刺されのようにできていた。 私は全身に脂汗をかいた。あの枝の先についていた赤いチョークの粉がきれいなグラデーションの上におじゃましてきたのだ。この生物教師を杉下右京とした場合の神戸尊(シーズン7最終回~シーズン10)がよけいなことをしでかしたのである。私は赤い粉をこするが指では取れない。六角、いやせっかく塗ったこの枠に仕方なく消しゴムを入れる。今までの努力は警視庁、いや帳消しになってしまった。その記憶は今も特命、いや克明に覚えている。 深い絶望と憎しみが同時に押し寄せ、その日の昼食は購買のカツサンドを2個食べた。いつもは1個なのに。「いつもは1個なのに今日は2個? 彼女でもできたんか? ああん?」購買のおばちゃんが聞いてきたのできれいな無視をした。二度と話しかけてくるなと思った。