東洋のマンチェスターから世界の大都市へー「大大阪」を形成したもの
かつて大阪が「大大阪」と呼ばれた時代があったことをご存知でしょうか。関東大震災後の被災者の転居、市域拡張により、1925(大正14)年の大阪市は人口211万人、東京(当時は東京府東京市)を上回る日本一の大都市として栄えました。しかし、「大大阪」時代と呼ばれた黄金期は長くは続かず、戦時中には生産額でも東京に逆転されます。 現在、さまざまな面で東京一極集中の弊害が指摘されています。日本再生の鍵は、地方創生と言われて久しいですが、「大大阪」が誕生し、やがて衰退した背景に何かヒントは隠されていないでしょうか。日本経済史、日本経営史が専門の南山大経営学部、沢井実教授が「大大阪」とはどんな時代で、そこから何を学ぶことができるかシリーズで執筆します。 第1回は、「大大阪」を形成していったものは何か、振り返ります。 ----------
「大大阪」の形成:「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ
いま「大大阪」を取り上げることの現代的な意義とは何であろうか。 最初に図1をご覧いただきたい。この図はさまざまなことを教えてくれる。戦前期には大阪府が全国一の生産額を誇り、大阪府と東京府(東京府と東京市が統合されて東京都になるのは1943年)の地位が逆転するのは戦時期であった。 しかし、東京都の全国一の地位は高度経済成長期まであり、1980年代半ば以降は愛知県の躍進が著しい。また戦間期から戦時期にかけて、さらに1960年代にかけて主要な生産府県への生産の集中度が上昇を続けるのに対し(戦時中から戦後直後にかけて断絶はもちろん空襲の影響が大きい)、1963年をピークに生産の集中度は低下の一途をたどる。1980年代半ば以降の愛知県の上昇と工業生産の全国への拡散が印象的である。 「失われた10年」、さらには「失われた20年」がささやかれ(失ったのは誰か、主語が明確でない点でこの議論はやや無責任であるが)、日本経済の長期低迷が指摘されて久しい。いまここで「ものづくり」戦前日本の屋台骨であった大阪の経済史や経営史を振り返ることは、製造業の行く末を考える私たちの視点をより確かなものにしてくれるだろう。