東洋のマンチェスターから世界の大都市へー「大大阪」を形成したもの
紡績業、織物業を支えた商社と私鉄の発展
1883年開業の大阪紡績(のちの東洋紡績)は山辺丈夫という卓越した技術者の下で経営的成功を収め、これがビジネスモデルとなって以後、天満紡、浪華紡、摂津紡、金巾製織、岸和田紡、明治紡、日本紡などが次々に開業する。 だれが言い出したのか確定できないが、日清戦争の頃より大阪は「日本のマンチェスター」、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになった。紡績業や織物業の成長を綿花商社、繊維商社が支えた。三綿と呼ばれた東洋棉花(三井物産綿花部が分離独立)、日本綿花、江商は綿花の輸入市場で大きな存在となっただけでなく、綿糸布取引も活発に行った。三綿に伊藤忠、丸紅を加えて関西五綿と呼ばれ、それに続く中堅商社として船場八社(又一、岩田商事、丸永商店、田附商店、竹村綿業、竹中商店、豊島商店、八木商店)が有名であった。 一方、関西は私鉄王国でもあった。1895年創業の紀摂鉄道はのちに南海鉄道と改称し、南海鉄道は1903年に難波―和歌山間を全通させる。05年に阪神電気鉄道、06年に京阪電気鉄道、07年に箕面有馬電気軌道(18年に阪神急行電鉄び社名変更)、10年に大阪電気軌道(のちの近畿日本鉄道)が創立された。阪急社長の小林一三は斬新な経営戦略を次々に打ち出し、沿線の住宅地開発、ターミナル・デパート、宝塚少女歌劇を誕生させた。 1925年4月の第二次市域拡張によって西成郡、東成郡を編入した大阪市は、「大大阪」と呼ばれた。32年10月に東京市が5郡隣接82町村を合併して世界第2位(第1位はニューヨーク)の大都市(「大東京」)になるまで全国第1位の人口を維持した。 戦間期には21年の名古屋を最初に、大阪、横浜(27年)、神戸(29年)、京都(31年)、東京と6大都市のすべてが市域拡張を行った。1935年の人口は東京588万人、大阪299万人、名古屋108万人、京都108万人、神戸91万人、横浜70万人であった。 ---------- 沢井実(日本経済史、日本経営史) 1978年国際基督教大学教養学部卒業、1983年東京大学大学院経済学研究科第二種博士課程単位取得退学、1998年大阪大学博士(経済学)取得 東京大学社会科学研究所助手、北星学園大学経済学部専任講師、北星学園大学経済学部助教授、大阪大学経済学部助教授、マールブルグ大学Japan-Zentrum客員教授、EHESS(パリ)客員教授、大阪大学大学院経済学研究科教授、2016年から南山大学経営学部教授 主な著作物:『近代日本の研究開発体制』(2012年、名古屋大学出版会)、『近代大阪の産業発展』(2013年、有斐閣)、『マザーマシンの夢』(2013年、名古屋大学出版会)、Economic Activities Under the Japanese Colonial Empire, 2016, Springer Nature(編著)、『日本の技能形成』(2016年、名古屋大学出版会)、『見えない産業』(2017年、名古屋大学出版会)