【日本古代史ミステリー】国を揺るがす骨肉の後継者争い勃発! 大海人皇子はなぜ一旦天智天皇の後継者争いから身を引いたのか!?
■約3年の間に変動を続けた王位継承に絡む政治情勢 天智6年(667)、中大兄王子(なかのおおえのみこ)は近江大津宮に遷都し、翌年旧正月に大王天智(天皇)として正式に即位した。このとき、弟の大海人王子(おおあまのみこ)は東宮、つまり太子の座についたと『日本書紀』は伝える。大海人王子は兄・中大兄の娘を4人も妻に迎えており、政治面でも大きな功績があった。冠位二十六階制や甲子の宣などを主導したのは大海人王子であったという。 だが乙巳(いっし)の変から数え、26年も権勢をふるった天智も、大王となってからは短命に終わった。即位から約3年後の天智10年10月、病に倒れ、46歳で没するのである。その間の倭国内外の情勢の変遷を追ってみたい。 天智9年、朝鮮半島の情勢がにわかに緊迫の度合いを増す。4月に高句麗の遺臣が唐に叛乱を起こし、7月にはそれに呼応して新羅(しらぎ)が旧百済(くだら)領に侵攻。翌月に小高句麗国を建てた。新羅と友好を回復した倭国にも、その軍事支援要請などがあったと考えられる。一方で同年、唐からも使節が派遣されてきている。やはり、倭国への援軍要請があったとみられる。難しい局面に晒される近江朝廷だが、2年前すでに中臣(藤原)鎌足(なかとみのかまたり)が没していた。彼は唐・新羅への両面友好外交を主導する存在だったと思われ、天智政権は大きな支えを失っていた。 そして運命の天智10年を迎える。この正月、天智は第一皇子の大友王子(おおとものみこ)を太政大臣とした。太政大臣とは国政を総括する職で、その職務は大海人王子が果たした役割と重なる。天智は、わが子・大友王子に王位を継がせたくなったからと言われているが、はたしてそうだったのか。 9月、この大変な情勢下で、天智は病に倒れた。翌10月には重態となり、天智はやはり弟の大海人王子に後事を託そうとする。しかし大海人王子は辞退し、剃髪して僧となり、妻の鸕野王女(うののおうじょ/のちの持統/じとう/天皇)、草壁王(くさかべおう)と忍壁王(おさかべおう)をともない、吉野へ去ってしまった。なぜであろうか。 ■対立の背景にあった外交方針と皇位継承 ひとつは外交方針の違いによる政府間での対立である。天智が倒れた後、当時の近江朝廷は、大友王子とその周囲の五大官、そして亡命百済人が実権を握っていた。亡命百済人にとって、新羅は祖国を滅ぼした仇敵である。彼らは親唐外交に傾倒し、対・新羅を志向して徴兵を始めた。一方の大海人王子は親・新羅外交を進めていたため、朝廷内で孤立した大海人王子は身を退くことで安全を保ったと考えられよう。 もうひとつは妃である鸕野王女の意志である。鸕野は自身が産んだ草壁王の実権強化と王位継承を望んだはずだ。手っ取り早いのは武力で大友王子政権・近江朝廷を壊滅させることである。その討伐戦には、鸕野も草壁王も本人が参加して名声を高めなければならなかった。 『日本書紀』持統称制前紀の「軍師に告げ、人びとを集めて共に計略を定め、死を恐れぬ人びと数万を分かって要害の地に配置した」「皇后(鶴野)は、はじめから天皇(天武)を補佐して天下をお保ちになった。天皇のお側にあって政務に話が及ぶごとに助け補われることが多かった」という記述も鍵となろう。大海人王子も、自身が次の王となるのはプラン通りとして、その後には大友王子が後見する王ではなく、自身の血統である草壁王などに継承させたいと考えていたであろう。大友王子討伐戦には必ず勝利しなければならないが、その公算もあった。 そして大海人王子が勝利すれば、白村江・百済救援戦における敗戦の責任を大友王子および、兄の中大兄王子に背負わせることができる。自身が起こす内乱の大義名分として、新羅支持を掲げつつも対外戦争の反対も掲げておいて、豪族らの支持を得ようとしたとみられる。 天智は12月3日に崩御した。「天命開別天皇」という諡号(しごう)を奉呈され、後の天皇家の祖となったのである。 監修/倉本一宏 文/藤井勝彦 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
歴史人編集部