阿川佐和子「限界暗記」
阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。小学校の同窓生から「校歌、覚えてる?」と聞かれた阿川さん。聴いてみてもまるで知らない曲のごとく覚えてなかったそうで――。 ※本記事は『婦人公論』2024年9月号に掲載されたものです * * * * * * * 小学校の同窓生数人と再会した。六十年以上昔の記憶が少しずつ蘇ってくる。 「ほら、正門の前にあった文房具屋さん、なんて名前だっけ?」 「かきかた鉛筆買ったよね」 「音楽の先生は小松先生!」 「大好きだった。いい先生だったなあ」 そんな会話を繰り返すうち、一人が、 「校歌、覚えてる?」 問いかけた途端、二人が歌い出した。私はなんの反応もできない。まるで知らない曲のごとしである。 「ぜんぜん覚えてないや」 「えー、覚えてないの?」 言い訳をさせていただければ、私はその小学校には三年生までしか在籍しなかった。四年生から別の区立小学校に転校したのである。 ならば転校した先の小学校の校歌を覚えているかと問われたら、こちらもまったく思い出せない。覚えているのはその学校に通っていた昭和三十九年に東京オリンピックが開催され、全校生徒が校庭で踊らされた五輪音頭のメロディである。 校歌がどんな歌詞でどんな曲だったのか。今よりはるかに記憶能力に長けていた年頃のはずなのに。
私の校歌の記憶は中学からである。ミッション系の女子校のせいか、校歌にしては珍しい三拍子だった。どう頑張っても運動会で生徒の士気を上げるには役立たないだろうと思しき流麗なメロディで、むしろヨーロッパの晩餐会でワルツを踊るにふさわしいと感じた。 その校歌を作曲したのが山田耕筰で、作詞は北原白秋だと知ったとき、日本を代表する作詞作曲家も生活費を稼ぐために校歌を作らなければならないときがあったのかと驚き、しかし同時にそんな大御所に作ってもらった校歌らしからぬ校歌を誇りに思ったものである。今でもその校歌は歌うことができる。 その女子校に入学して校歌より先に覚えなければならない文言があった。お昼ご飯の際、お弁当を前にして手を合わせ、食前の祈りを捧げるのが日課だったのだ。 そのとき、唱えるのは「主の祈り」というものである。 「天にまします我らの父よ」で始まるほんの百五十文字あまりの祈りの基本型のようなもの。メロディはない。途中、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉が入っているために、「食前の祈り」として生徒たちに唱えさせていたのかもしれない。おいしいお弁当をいただく前に、毎日唱えるのだから、いつしかそらんじられるようになる。