サイコ芸人が手に入れた「優しさ」 平成ノブシコブシ徳井健太の「褒め芸」
今では「考察芸」「褒め芸」のキャラを確立した徳井だが、ここへたどり着くまでには何度も地獄を見てきた。幼い頃の彼は、いま生きている現実が夢なのかもしれないと思い込み、それならばと自暴自棄に生きてきた。ところが、小1の頃にふと「これは夢じゃないのかもしれない」と気付き、愕然とした。 「その瞬間のことははっきり覚えてるんですよ。傘を振り回して、雨上がりのアジサイを見ながら、『うわ、どうしよう!?』って思って。僕、悪いことしても謝ったりしてなかったけど、じゃああの人はずっと僕のことを恨んだりするんだ。怖ぇ、やべえ、って」 そこから徳井は「いつ死んでもいい」と達観して生きるようになった。複雑な家庭環境で育ち、生きることが苦痛だった彼にとって、死は救いであり、前向きな希望だった。それは今も変わらない。自分から死にたいわけではないが、いつ死んでも構わない。
実は苦しみもあった「サイコキャラ」という立ち位置を経て
芸人になったのもたまたまだった。高校のときに同級生の女子から「面白いから芸人になれば」と言われて、北海道から上京して吉本興業のお笑い養成所「NSC東京」に入学した。 ところが、入ってすぐに、のちにピースを結成する同期生の又吉直樹と綾部祐二の才能に打ちのめされ、「こんなやつらにかなうわけがない」と、芸人の道も早々にあきらめてしまった。 吉村に誘われて「平成ノブシコブシ」を結成してからは、『M-1グランプリ』に向けてネタを磨く日々が続いた。無気力だった徳井は相方の吉村の言う通りに動くロボットと化していた。 「あの頃は夢も希望もなくて、精神的にかなり追い詰められて、今よりもっと『いつ死んでもいい』と思ってましたね」
しかし、ネタでは結果が出せず、平成ノブシコブシは苦難の道を歩んだ。彼らが地獄からはい上がるきっかけになったのは、2010年に始まった『(株)世界衝撃映像社』の海外ロケ企画だった。ここで徳井は、平然と虫をバクバク食べたり、すでに結婚していたことをいきなり相方に告白したり、予測不能の行動を連発して視聴者の度肝を抜いた。何を考えているのかわからない徳井の「サイコキャラ」が確立した。 「あれは気持ち良かったですね。僕は絶対にこういうのはできると思っていたんで、ほらね、っていう爽快感はありました。でも、そこからまた(サイコキャラが)僕を苦しめ出すんです」 ほかの番組に呼ばれても、いきなり変なことを言うサイコキャラを求められた。ロケのときには隣にいる吉村がツッコむことで笑いが成立していたが、1人で番組に出てもそれができないことも多かった。そのキャラクターを知らないMCの前で突然妙なことを言って、気まずい雰囲気になったこともあった。サイコキャラが軌道修正されて褒め芸に落ち着いたのは、『ゴッドタン』に出てからだった。 「周りの人が何を思っていても、面白い人を面白いと言うのが本心だったんですよね。そんな素直な心を40超えてようやく取り戻したっていう感じです」 今は仕事も楽しくて充実しているという。好きなアイドルやギャンブル関連の仕事をメインにしつつ、『ゴッドタン』や『しくじり先生 俺みたいになるな!!』のようなお笑い濃度の高い緊張感のある仕事にも呼ばれる。そんな彼に今後の目標を尋ねると、意外な答えが返ってきた。 「僕はダウンタウンさんが好きで、『遺書』(松本人志のベストセラー本)と『WOW WAR TONIGHT』(浜田雅功の大ヒット曲)に憧れていたんです。本は出せたので、あとは歌ですよね。芸人が真面目な歌を出すのって格好良いし、ダウンタウンさん、とんねるずさんとか、選ばれた人しかできないじゃないですか。吉村の夢は『紅白』の司会らしいので、僕が歌手として『紅白』に出て、吉村が司会をしたら、そこで平成ノブシコブシは完結ですね」 『WOW WAR TONIGHT』の歌詞の中に「優しさに触れることよりふりまくことでずっとずっと今までやってきた」という一節がある。感情を失ったサイコ芸人がお笑い界で手に入れた「優しさ」という名の宝物。ノブコブ徳井は今日も声高らかに芸人賛歌を歌い続ける。 徳井健太(とくい・けんた) 1980年北海道出身。2000年、東京NSCの同期・吉村崇とお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」結成。「ピカルの定理」などバラエティ番組を中心に活躍。最近では、お笑い番組や芸人を愛情たっぷりに「考察」することでも注目を集める。このほど、芸人21組の「考察」をまとめた『敗北からの芸人論』を上梓した。「もっと世間で評価や称賛を受けるべき人や物」を紹介すべく、YouTubeチャンネル「徳井の考察」も開設している。