連合赤軍事件の過ちはどこに? 運動の内部から反省・分析 重信房子さんの新著『はたちの時代』
これを機にブントから分かれて赤軍派が旗揚げし、重信も参加する。本書では「今から振り返って歴史を辿れば」と断った上で、赤軍派の過誤のおおもとは、その暴力性にあったという見方を示す。 「七月六日の行動によって初めから道を誤ったために以降の失敗を刻印された」「やり方が違っても、共同する条件と方法はあったと思いますが、当時の未熟さでは、分裂は必然だった」「党内に自分たちの要求を通すために暴力をふるうというやり方は(略)、赤軍派がブントに持ち込んだ誤りであったこと、後のブントの分解の原因になったこと、また『連合赤軍事件』にも影響を与えたことは事実です」 それでも重信が赤軍派と行動を共にしたのは、人脈的つながりがあったのに加え、塩見が世界革命のための武装蜂起を呼びかけ、国際根拠地を作ろうと提唱したことに共感したからだ。警察の尾行がつくなかで会場やアジトの確保、会議の準備、カンパ活動やオルグを中心になって担う。
仲間の多くも追随して赤軍派に参加し、後に困難な道を歩むことになった人もいる。「私の赤軍派への誤った道が、もちろん主体的に選択したことはまちがいないのですが、遠山さんをはじめ仲間をも過(あやま)たせてしまったと思うことがあります」と後悔の念も書き留めている。 69年11月、赤軍派は首相官邸襲撃を計画し、山梨県大菩薩峠の山小屋で軍事訓練をしていて53人が一斉逮捕された。翌70年3月には、田宮高麿ら9人が日航機をハイジャックして北朝鮮に渡った。その後は弾圧が強まり、塩見をはじめ幹部らが次つぎと逮捕され、あるいは運動に見切りをつけて離脱する者が続出した。 それでも「無理な現実の武装闘争路線をいったん下ろすという決断」ができなかった。それは「赤軍派の結集軸自体が『武装闘争をやる事』だったから」としている。 結成当初の幹部がいなくなり、新たな指導者になった森恒夫が資金調達のために銀行強盗などを指令するようになると、重信は森と対立する。そこで国際部担当として中東問題を学習する中でパレスチナ問題の解決こそ革命の道と見定め、新たな地平を求めてアラブに脱出した。