のん×田中圭×滝藤賢一が考える批評との距離感「他者の評価よりも、まずは自分との戦い」
悔しいと思わなくなったらもうやらない
――加代子は認められない悔しさをエネルギーに変えて創作の道を突き進んでいきます。みなさんは、認められない悔しさとどう向き合ってきましたか。 のん 私は10代の頃はあんまりオーディションが受からなくて、何者でもない自分に対して鬱々としていた時期がありました。お仕事がないので、とにかく暇なんです。だからそういうときは外に出て本屋さんをめぐったり、街の人を人間観察していました。年の暮れが近づいてくると、ちょっと変わった人が増えたり。イチャイチャしているカップルのあとをついていったり(笑)。そうやって遊んで、気持ちを別の方向に向けるようにしていました。 田中 僕はただただ落ち込んでいました。僕らの仕事は、自分がいいと思うものが周りからするとそうでもなかったり。逆に、周りがいいと言ってもらえるものを自分がいいと思えなかったり。そのギャップにジレンマを感じることはありました。ただ、この年齢になって、認められていようと認められていなかろうと、人間、落ち込むときは落ち込むなと思いました。僕も今でもまだまだだなと思うことがあります。でも、まだまだだと感じられることが素敵なことだと捉えられるようになりました。受け止め方に余裕ができたのは、年を重ねてよかったことの一つですね。 滝藤 僕は小学生の頃からずっと認められない悔しさの中でもがいていた気がします。担任の先生が合唱部の先生で、クラスの子がみんな強制的に合唱部に入れられているのに、僕だけ入れられなかったとか。 田中 そんなあからさまなことがあるんですね。 滝藤 そういう扱いを受けることを自分でも当たり前だと思っていたかな。この世界に入ってからも、テレビに全然出られなかった時期は人の芝居を見て、なんで俺は出られないんだと歯がゆく思うことが何度もあった。出してもらったところで、何も出来ないんですけどね。それでまた悔しくなったり。 ――表現に携わる人間にとって、悔しさとはどういうものだと思いますか。 のん 私は悔しいと思うのは結構好きです。もうちょっとこうすればよかったと思うことで、次の目標が明確になる。自分のできなかったことに対し、なぜできなかったのか輪郭をはっきりさせて、原因を一つ一つ虱潰しに改善していく。そうやってどんどん自分が良くなっていくことにワクワクするんです。 滝藤 必要なものなんじゃないでしょうか。僕の場合、悔しいと思わなくなったらもうやらないと思います。悔しい、こんちくしょうと地団駄を踏んで、自分のやっていることに対し、本当にこれが今できるベストなパフォーマンスなのかと疑い続ける。俳優として生きてる限り、しつこく、あきらめず、往生際悪くやっていきたいですね。 田中 ずっとまとわりつき続けるもの、ですね。だから僕は気にしないようにしています(笑)。 一同 (笑)。 田中 何をやっても悔しさを感じようと思ったらいくらでも感じられますから。