「美人は1人もいなかった」国民的作曲家・山田耕筰の“ふしだらな女性関係” 長男が明かした「親父が惚れた女の共通点」
日本の国民的作曲家と聞いて、山田耕筰の名前を挙げる人は多いだろう。「赤とんぼ」「からたちの花」など今でも歌われる名曲のほか、交響曲やオペラも手掛け、文字どおり大正・昭和の洋楽界の重鎮として活躍。その功績によって昭和31年に文化勲章も授かった。だが一方では、女性関係に関するエピソードも多く、世が世なら大騒動になっていた……という見方もある。そんな山田耕筰を「実の息子」はどのように見ていたのか。昭和が終わった1989年に掲載された、貴重なインタビューをお届けする。 【写真】生前のままの姿で「剥製」に…山田耕筰と同時代を生きた「忠犬」とは (「週刊新潮」1989年2月2日号「ワイド特集 昭和史の家族(続)」より「艶福『山田耕筰』の長男が選んだ道」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職等は掲載当時のままです。一部敬称略) ***
3人の妻は「氷山の一角」
音楽活動の名声とは対照的に、山田耕筰の家庭生活は物議をかもしつづけた。 〈人間としての山田耕筰の評判は、終生たいそうかんばしくなかった。なによりも、ふしだらな女性関係は耕筰の生活をつらぬく恒常の主題ですらあった〉 と、矢野暢・京大教授もその山田耕筰論で書いている。 〈かれは、すくなくとも3回、妻を変えたが、その3人の妻は、かれがかかわった無数の女性関係の氷山の一角であったといわれている〉 よく言えば艶福家、はっきり言うと、とめどもない女たらしだったことは、かつての弟子の証言でもうかがえるが、いや、その3人の妻の扱いだけでも、十分に常識を外れていた。
お前はウブだからよく見てろ
最初は1914(大正3)年に結婚した声楽家の永井郁子さん。だが、結婚当初から別の女性を引き入れて、 「お前はウブだからよく見てろ」 と目の前でイチャついたりするので、郁子さんはたまらず実家に逃げ帰った。逃げ帰ったあとに長女の文子さんが生まれたが、後にこの母娘は〈残酷で浮気で破廉恥な夫であり父であり社会人です〉と雑誌で耕筰を非難したものだ。 2番目の妻は1916(大正5)年に結婚した声楽家の村上菊尾さん。永井さんとの結婚のときから引き連れていたあの女性だ。菊尾さんとの間には美沙、耕嗣、日沙の1男2女をもうけたが、戦後に別居。それからは、やはり声楽家の辻輝子さんと同棲し、1956(昭和31)年に正式に彼女と結婚した。 結局、3人の妻との間に4人の子供を遺したわけだが、このうち、永井母娘と美沙さんは行方不明、日沙さんは修道院に入り、輝子さんは死亡した。取材に対応できる社会人として世にあるのは耕嗣さん(69)だけなのだ。