“幻の本”『ふれる』にふれる その2 空羽ファティマ[絵本作家]
茶道の深さ
(京都で実際にお茶をたてた体験をしてみて)「お茶室という空間にまずとても惹(ひ)かれました。あの狭い空間に足を踏み込めるとそれだけで心が静まるんです。季節を感じさせるお花や掛け軸も演出として素晴らしくてまるで一つの舞台のようでした。茶道にも独特の所作がありますけど、手元まで美しく見せるという意味では、踊りと共通する部分が多い気がします。柄杓(ひしゃく)を扱う手一つとっても芸術的で本当に長い年月をかけて磨かれている作法なのが伝わってくるんです。佐山宗準先生から作法を習いながらたてたのですが、やっぱり見るのと、やるので大違いでした。茶筅(せん)を使ってお抹茶を混ぜる時、円を描くのではなく、手首を縦に動かすよう教えられたのですが、手首に余計な力が入ってしまくるんです。僕のたてたお茶と先生のたてたお茶を飲み比べてみたら、同じ抹茶を使って同じ手順を踏んでいるのに味が全く違っていました。先生のたてたお茶は泡がきめ細かくて口に運ぶと甘くて、優しい味がするんです。雑味もなく舌触りが本当にいいんですよね。一方で、僕のたてたお茶は泡が立たなくて見た目も美しくなかったし、味が重いというか苦さの方が立っていた。舌触りもざらざらしてこんなに違うのかと驚きました」 と語っているが、繊細な「違いのわかる男」だからこそ、普通の人が感じないことにも心を配り、踊りも歌も演技も、どんどん技を磨いていったのだろう。 芸術家とは、些細なことを自分なりに感じてそこをより極めていく人のことをいうのだろうけど、その点で春馬さんは芸術家以上に芸術家だったのだと思う。このまま40、50、60歳と歳を重ねていったらどれだけ魅力的な人になったかと、想像するだけでワクワクする。きっと、ダンディで味のある実力派俳優&歌い手&日本文学に精通したアーティストになっていたと確信する。 本人的にはまだまだだったのだろうけれど、美しい細い指の春馬さんが心を込めて柄杓を扱う手つきも、きっとすっごく綺麗な風景だったろうな、とイメージする。 そんなふうに彼の手や心が生み出す空気感を素敵だろうと想像できるのは、映像に手がアップで映ることはないのにもかかわらず『真夜中の五分前』で、時計職人の手を作るために日々ずっとその手に工具を持ち続けタコを作るほど職人の手を追求した彼だからだ。そこまでこだわる、春馬さんが心を込めてお茶をたてるその手つきが美しくないはずはないはずだ。 (「あれ?“春馬さん”と呼んでる?」と思われる方もいるかもですね。ハイ。3年間彼について書いてきたので2024新春号からは、そろそろ、にわかファンを卒業させて頂いてもいいかなと思いまして、春馬さんと呼ばせていただいております)