能登49地区の孤立、県は想定も対策もなし…諦めの境地の住民ら「本当はここで死にたいんだ」
[能登地震1年]<2>
日本海に面する石川県輪島市の西保地区は、この1年で2度、孤立した。1度目は元日の地震、2度目は9月下旬の大雨。いずれも土砂崩れで道路が寸断された。「口では復興と言うけれど、内心は皆諦めとる」。中幸雄さん(74)は2日、分厚い泥に覆われた地区公民館でつぶやいた。ここの館長を務めている。 【写真】被災地にすき焼き1300人分…避難所はおにぎり・パン中心、涙流す人
中さんの自宅は山あいにある。地震では、潰れずに残った中さん宅の車庫に近所に住む10人が避難した。94歳を筆頭に大半が70~80歳代。電話がつながらず、救助を呼べない。電柱がバタバタと倒れ、停電した。食料はコメや野菜、おせちを持ち寄った。夜は余震できしむ壊れた自宅に戻り、おびえながら眠った。
1月10日頃、車庫にいた70歳代の女性が低体温症で意識を失った。中さんらが女性を担いで土砂が崩れた現場まで運び、徒歩でやって来た自衛隊員に託して何とか病院につなげた。自衛隊のヘリコプターで中さんらが救助されたのは17日。この後、この年初の風呂につかった。
450人以上いた西保地区の住民は、道路が仮復旧した4月以降、ぽつぽつと避難先から戻り始めた。このときはまだ、道が直れば、家を直せば復興できると信じていた。
激しい雨が奥能登を襲った9月21日朝。公民館へ避難した中さんら住民11人は、そばを流れる桶滝川が瞬く間に増水し、近くの建物の2階へ移った。その直後、濁流が公民館を襲った。再び孤立し、23日にヘリで救助された。「もう終わりや」。ヘリに乗り込む際、住民らは口々に漏らした。
泥をかぶったままの田んぼ、大きく壊れた道路……。「よくまあ、こんなところに生まれたもんだな」と中さんは思う。そして、「何がなくても古里がいい。本当は皆、西保で死にたいんだ」と吐露した。
能登半島地震では、石川県奥能登を中心に計49地区が孤立した。道路が至る所で寸断され、通信もつながらず、県や市町は実態把握に苦労した。
県が災害時の孤立を想定していたのは、49地区のうち19地区にとどまる。県幹部は「道が1本だけなど、内閣府の条件をもとに単純に算出した」と説明し、複数の道路が同時に寸断されることは考えていなかったという。西保地区は19地区の一つだったが、「特段の対策もなかった。あんな大災害が起きるとは誰も思わない」とも語った。