宮台真司は『サタデー・フィクション』に何を感じたのか? ロウ・イエ監督と考える美学的な生き方
スパイの恋
宮台:次に「スパイの恋」。多くのスパイ映画がスパイの恋を描きます。最近ではブラッド・ピット主演『マリアンヌ』。スパイの密命は敵国の共同体に潜ること。潜って敵国の人に恋したふりをする内に虚実の境が崩れる。最後は密命を放棄して恋を貫徹せんとする。恋の貫徹は死を意味する。でもその死は挫折ではなく輝かしい貫徹だ……定番のストーリーです。 本作はイレギュラー。演出家タン・ナーが女優ユー・ジンに恋しつつ、疑い続けるからです。かつて恋人だと思ったのも勘違いで、スパイ活動の一環では? 上海に来たのもスパイとしての任務貫徹が目的なのでは? この未規定性がカセクシス(溜め)になって、最後の最後にカタルシス(浄化)が訪れます。この溜めと浄化を、タン・ナーと同じく観客も共有するのです。 「スパイ」と「恋」は対照的。おのおの取替可能性replaceabilityと取替不能性irreplaceabilityを隠喩します。スパイは取替可能な部品。死んだら別のスパイが送り込まれる。恋は違います。恋の相手は取替不能。だからスパイが恋を演じる時、本来は取替可能な相手を、取替不能と見做すが如く演じます。さてユー・ジンにとってタン・ナーは、取替可能か、取替不能か。 タン・ナーはかつてユー・ジンとは恋仲だったと信じようとする。だから再会して程なくキスをします。でも彼は疑念を抱き続ける。恋人に再会すべく女優として来たのか。密命を帯びたスパイとして来たのか。実際、元夫暗殺の謀略に加担した。だが蘭心劇場の大混乱後、全てが終ったら港湾のカフェで待つとの伝言。来る筈もないと思いつつ彼は待って待って待つ。 果たしてユー・ジンは密命を裏切り、日本人将校など並み居る敵を打ち倒し、満身創痍でカフェを訪れます。タン・ナーは彼女の本気の恋を知り、それが彼女の恋の貫徹となる。恋の貫徹と同時に彼女は死にます。長いカセクシス(溜め)の後、タン・ナーも観客も、カタルシス(浄化)を得ます。その意味で間違いなくバッドエンドではなくハッピーエンドです。 途中に出てくるニーチェの言葉も伏線回収されます。曰く、愛は過剰な贈与。見返りを求める交換ではない。元々は彼が神について言いたかったこと。信仰は過剰な贈与。見返りを求める交換ではない。愛は本物だったと伝えるためにだけタン・ナーの元に命を賭して赴いたユー・ジンの振る舞いが過剰な贈与。僕らに欠けている過剰な贈与を指摘されたと感じます。 ロウ・イエ:宮台さんのおっしゃるとおりです。愛というのはユー・ジンにとっては自分のためのものであり、タン・ナーとはそれは関係のないもので。スパイという身分の特殊性というのは、他人に与えられた任務を完結しなければいけないということ。常に他人のために任務を遂行して、自分を持たないんですよね。この映画の中で、ユー・ジンはずっと他人の道具であり、駒なんです。この映画の一番特別なところは、彼女が道具として任務を果たした後にあるのかもしれません。彼女が反抗するのは、任務を果たしたあとだということに皆さんお気づきになるかと思います。実は彼女の道具としての身分への反抗であって、愛のためだけではないのです。ユー・ジンは全編を通して、長い間道具として生きている。でも、最後に彼女が蘭心劇場に戻ってきたところが、自分で運命を決めた瞬間なわけです。それまで、舞台の外ではパスカルから指示を受け、舞台の上では演出家から指示を受けてきた。つまり彼女は、舞台の上でも外でも、道具としての役割を果たしてきた。最後の反抗は、パスカルからの指示への反抗でもあり、演出家への反抗でもある。彼女は離れないし、演出家の指示通りに芝居をしません。 宮台:相手を取替可能な道具として扱わず、過剰な贈与の相手として見做した時にだけ、自分も取替可能な道具であるのをやめられます。僕らは今、恋愛においてすら相手を取替可能な道具と見做す作法にはまり、それで自らを取替可能な道具に貶めています。ユー・ジンの髪型や佇まいが『攻殻機動隊』の草薙素子に似るので(笑)、日本人に突きつけられた匕首だとも感じました。