次の大河「べらぼう」で横浜流星が演じる蔦屋重三郎が、見逃さずに大金に変えた当時のブームとは
■風刺や下ネタを読み込んだ「狂歌」ブームに便乗して大もうけ 耕書堂が日本橋に進出した頃から江戸では空前の狂歌ブームが起こっていました。狂歌とは、五・七・五・七・七の和歌の形式の中で、社会風刺や皮肉、下ネタなどを盛り込んだもののことです。 狂歌は「連(れん)」と呼ばれるコミュニティで歌会が催され、当時の江戸の文芸界を牽引していた狂歌師・戯作者(げさくしゃ)たちの多くは「連」を主宰していました。狂歌は本来その場で読み捨てられることが基本でしたが、目ざとい蔦重がこのブームを見逃すはずはありません。 「蔦唐丸(つたのからまる)」の狂歌名で「連」に参加することで、大田南畝をはじめとする人気狂歌師の出版権を確保したのです。また自らも歌会を主宰。そこで詠まれた狂歌を次々と独占出版することに成功します。 その後、徐々に狂歌人気に陰りが見えてくると、狂歌よりも挿絵である浮世絵中心の「狂歌絵本」にシフトします。 天明6(1786)年、当時を代表する狂歌師50人の肖像画を北尾政演(山東京伝の画家名)が描いた『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』はベストセラーになりました。すると蔦重はさらに思い切った狂歌絵本をプロデュースします。
■稀代の浮世絵師・喜多川歌麿のプロフィール 無名ながらその才能を蔦重が高く評価していた喜多川歌麿(「べらぼう」で演じるのは染谷将太)に狂歌絵本の浮世絵を描かせたのです。ここから歌麿三部作と呼ばれる『画本虫撰(えほんむしえらみ)』『百千鳥狂歌合(ももちどりきょうかあわせ)』『潮干のつと』を発刊。喜多川歌麿の出世作になりました。 喜多川歌麿(1753?~l806年) 江戸を代表する浮世絵師のひとり。生年、出生地などは諸説あり不明。北川豊章の画号で浮世絵師としてデビューするが、30代半ばまで鳴かず飛ばずだった。蔦屋重三郎にその才能を見出され、狂歌絵本『画本虫撰』『百千鳥狂歌合』で花鳥や虫類を繊細な筆致で描き注目を集める。 また「枕絵」と呼ばれる情交を描いた春画も数多く描いた。そして40代を迎えた頃、大首絵(おおくびえ)(胸から上の構図)の手法で女性の表情の微細な変化を描いた美人画により大ブレイクし、時代の寵児に。その秀作の多くは耕書堂から出版されていることから、蔦重の企画・助言があったものと思われる。 寛政9(1797)年の蔦重の死後は画風が変化、作品の質が低下したと言われる。 ---------- 川上 徹也(かわかみ・てつや) コピーライター 1985年、大阪大学人間科学部卒業後、大手広告代理店勤務を経て独立。2008年、湘南ストーリーブランディング研究所を設立。『あの演説はなぜ人を動かしたのか』など著書多数。 ----------
コピーライター 川上 徹也