吉原名物・かつての「ファストフード」はなぜ高級料理に?岡本太郎ら著名人が愛した文化財の名店
築100年・博物館のような店内
歴史ある桜鍋を楽しめるだけでなく、東京の郷土料理を文化財の建物で味わう、というのも中江ならではの粋な体験ではないだろうか。 現在の建物は、関東大震災の翌年に宮大工によって建てられた。東京大空襲の時には、付近に焼夷弾が落ちたものの不発により奇跡的に乗り越え、今年で築100年を迎える。 外観もさることながら、店内も木のぬくもりや粋な造り、個性的な置物の数々に魅了される。 文化財に指定されたポイントでもある2階の欄間は、松竹梅に加え、“桜”が彫られた見事な造りだ。床柱には黒檀や紫檀という高価な銘木も取り入れられている。 馬肉を扱っていることから、神棚には馬頭観音、1階の壁には谷文晁の馬の絵などたくさんの馬モチーフが見られる。 厨房にある木のまな板も、建築当時から100年近く使われ続けている貴重なものだ。同じ部分を使い続けると凹んでくるため、都度カンナで削っており、当初は現在の2倍の厚さだったそうだ。
いつかは継ぐだろうと心構えを
4代目の白志さんが生まれたのは、1963年(昭和38年)。生まれ育った中江のすぐそばには、吉原の他に、多くの日雇い労働者が暮らす、通称“ドヤ街”と呼ばれる山谷があった。 当時の山谷では、冬には車に火をつけて暖をとる人や、路上で凍死する人も見られた。警官と労働者の間では何度も暴動が起き、盾を持った機動隊がバリケードを張る姿もあった。 そんな特殊な環境で育った白志さんだが、小学生に上がる前からお店には立ち始めていた。箸袋に割り箸を入れたり、徳利をお湯に入れて温めたりする仕事を、好んで手伝っていたそうだ。 大学を卒業後、一般企業に就職するも、繁忙期は仕事終わりや休日でもお店を手伝う日々が続いた。 「3代目からは、お店を継いでほしいと言われたことはなかったですが、いつかは継ぐんだろうなと思ってましたし、心構えはしていましたね」 社会人2年目になって転勤で名古屋に移るも、家業を手伝える距離にいないことから会社を退職。24歳という若さで4代目の店主となった。 お店を継いだ昭和62年は、バブル真っ只中だった。銀座へと向かうお客さんが、0次会として一杯桜鍋をひっかけにやって来る。お店は大賑わいで、お金はたくさん入ったというが、それを使うプライベートがないほどの忙しさだったという。 今でも、出世した常連さんが部下を連れてきたり、おじいちゃんが連れてきた孫が時代を経て今度は自分の孫を連れてきたりと、たくさんの常連に親しまれていると嬉しそうに話す。