『チ。』『宙わたる教室』に共通する叩き壊すべき“世界” “学ぶ”ことの先にある興奮と喜び
「文字が読めるって、どんな感じなんですか?」 すると彼女はこう応える。 「文字はまるで奇跡ですよ」 「文字は本当にすごいんです。あれが使えると時間と場所を超越できる。200年前の情報に涙が流れることも1000年前のウワサ話で笑うこともある。そんなの信じられますか?」 「私たちの人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められている。だけど文字を読むときだけは、かつていた偉人たちが私に向かって口を開いてくれる。その一瞬、この時代から抜け出せる。文字になった思考はこの世に残ってずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなのまるで奇跡じゃないですか」 【写真】『宙わたる教室』を牽引する小林虎之介 現在放送中のアニメ『チ。―地球の運動について―』(NHK総合)第9話「きっとそれが、何かを知るということだ」のワンシーンを眺めながら、ドラマ『宙わたる教室』(NHK総合)第1話「夜八時の青空教室」のあるシーンを思い出した。定時制高校の担任・藤竹(窪田正孝)から、「ディスレクシア(読み書きに困難がある学習障害)」の可能性を指摘された生徒・柳田(小林虎之介)は、彼の言葉を聞いて泣きながら激高する。 「何で俺に教えたんだよ。今さらそんなこと言われて、どうしろっつうんだよ」 「俺が喜ぶと思った? 前向きになれるとでも思ったかよ」 「こんな思いするぐらいだったら、何も知らねえままで良かったんだよ!」 一見すると、真逆の反応を描いたように思えるこの2つのシーンだが、恐らくここで提示されているのは「読める/読めない」ではなく、それを通して得ることのできる「知」について――言わば「知ること」そのものについてなのだろう。その意味でこの2つの作品は、まったく別のやり方で、同じテーマを描いた作品なのではないだろうか。そんなふうに思った。 『チ。』の舞台となるのは、15世紀のヨーロッパ某国。「天動説」をはじめとするキリスト教的な価値観が絶対であるこの世界の中で、「地動説」の可能性に魅せられた人々の「生き様」と引き継がれるその「意思」を、バトンリレーのように描き出す作品だ。一方、定時制高校の新米教師・藤竹を主人公とした『宙わたる教室』は、年齢も出自もバラバラな生徒たちが、「科学部」の活動を通して緩やかに繋がりながら、やがて一致団結して「あること」を成し遂げる物語だ。 舞台となる場所も時代も異なる両作は、奇しくも同じ「宇宙」をテーマとして扱っているけれど、目視での「観測」をベースとした『チ。』に対して、『宙わたる教室』で生徒たちが夢中になるのは、自らの手を動かした「実験」だ。彼/彼女たちは、それぞれの「観測結果」や「実験結果」をもとに、自らの「理論」を組み立ててゆく。その原動力となっているのは、「知りたい」と思う「好奇心」であり、「さらに知りたい」と願う「探求心」である。そして、新しい「知」は、彼/彼女たちの目の前に広がる「世界」の形を徐々に、やがて大きく変えていくことになるのだった。果ては、彼/彼女たちの「運命」までも。 両作品に共通しているのは、それだけではない。「知りたい」と思うことによって、自分自身の「何か」が変わってゆくこと。さらには、同じものを「知りたい」と願う者たちが、年齢や性別、出自、果ては場所や時間を超えて繋がってゆくこと。そんな原初的な「興奮」と「喜び」を、この2作品は活き活きと描き出しているのだ。とはいえ、この2作品が秀逸なのは、それを手放しで「称揚」するだけではないところだろう。『チ。』の世界において「地動説」を研究することは、異教徒のすることであり、それは断じて許されない。彼/彼女たちは、文字通り「命懸け」で――実際、その途上で生命を失う者も少なくない――その問題を解き明かそうとするのだ。