「彼女はいつも自転車に乗っていた」――津波で亡くなったアメリカ人の友人の思い出を胸に生きる女性 #知り続ける
実家のある地域は「蒸発」していた
連日、校長室で寝起きし、3月15日には学校に避難している住民の数が700人を超えた。 学校の外に出られたのは震災から10日が過ぎた頃だった。同僚教員の車に乗って実家のある南三陸に向かうと、見慣れたはずの雄勝や南三陸の街が完全に姿を消していた。ニュースでは「壊滅」と伝えられていたが、阿部にはそれが「消滅」、あるいは「蒸発」してしまったように見えた。 実家に向かう途中、偶然にも携帯電話がつながり、両親が南三陸の避難所に避難していることを知らされた。朗報に涙があふれた。 その直後だった。思いがけない電話を受けた。親友のキャサリンからだった。 「ねえ、テイラー、知らない?」 「えっ、知らないけど、どうして……」 キャサリンは何も言わない。 そのとき初めてテイラーが行方不明になっていることを知った。 「嘘でしょ……」 声が震え、叫ぶようにせがんだ。 「嘘って言ってよ!」
テイラーの思い出とともに生きる日々
「テイラーの遺体が見つかったと聞いたのは、それからしばらく経ってからのことでした」 阿部は日が暮れて薄暗くなった保健室で、あまり感情を表に出さずに言った。 「後で聞いたところによると、テイラーは当時勤務していた石巻市の万石浦(まんごくうら)小学校で児童を避難させた後、通勤で使っている自転車に乗ってアパートに戻ろうとして、津波にのまれたらしいということでした。私、それを聞いて『あ、自転車な』って思いました。彼女、いつもとびきり明るくて、メチャクチャ元気なんです。だからどんなに寒い日でも、雪が降るような日でも、学校に自転車で通ってた。自転車で亡くなったことが、なんだかとってもテイラーらしいなって思えて、だから思わず笑えてきて。で、次の瞬間、『なんで、なんで』ってとめどなく涙があふれ出てきて……」 彼女は両目にうっすらと涙を浮かべながら、親友が亡くなった後の学校生活について語ってくれた。 「それで私、震災のわずか1カ月後の2011年4月に、太平洋に面する大須小学校から、今度は石巻市の中心部にある渡波(わたのは)中学校に異動になったんです。でも、そこの周囲も津波で大きな被害を受けていて、近くがテイラーの通学路で、実際にその学校の近くで彼女の遺体が見つかったんです。だから着任後、私、なんだかテイラーに仕組まれたみたいだなあ、これは絶対、彼女が『私のこと、忘れないように!』って言っているなって思いました。そこはテイラーが震災前に英語の授業を受け持っていた学校でもあったので、生徒たちもみんな彼女のことを覚えているんですよ。もう何から何まで『テイラー、テイラー』で。だから私、生徒たちに向かってこう話したんです。『みんな、テイラー先生って覚えてるでしょ? 彼女、いつもなんだか知らないけど、やけに楽しそうだったよね。笑ってばかりだったでしょ? だからみんなも、これからつらいこともあるかもしれないけれど、笑って生きよう。そう、テイラー先生がやってたみたいに!』って。事実、あの頃学校には家を失ったり家族を亡くしたりした子どもたちがたくさんいたんです。生徒もボロボロだったけれど、教師たちもみんなボロボロでした。死者と生者の境目がひどく曖昧で、だから……」 阿部はそこで涙がこぼれないように両目をつぶった。 「私、ずっと、震災後もテイラーと一緒に暮らしてたような気がする」 ※本記事は、三浦英之『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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