「彼女はいつも自転車に乗っていた」――津波で亡くなったアメリカ人の友人の思い出を胸に生きる女性 #知り続ける
小学校で被災 地元の人々を救護する日々
2011年3月11日。 阿部は太平洋に突き出た岬の先端にある石巻市立大須小学校にいた。高さ40メートルの高台の上に建設された開校10年目の小さな学校で、全校児童はわずか14人。その立地条件から災害時には周囲に避難路の確保が難しくなるため、3機のヘリコプターが同時に校庭に着陸できるよう設計された「災害に強い」教育施設だった。 その日は年度末の大掃除のため、児童全員で床のワックスがけをすることになっていた。 午後2時46分、轟音と共に両足でも立っていられないほどの激震に襲われた。 子どもたちの近くに駆け寄りたくても、身動きが取れない。 「頭を隠して! ダンゴムシの姿勢!」 そう叫ぶのが精いっぱいだった。 津波が来るかもしれない。揺れの大きさからそう確信した。実家は南三陸町の海沿いで民宿を営んでいる。小さい頃から「地震の後には津波が来る」と教えられていた。 学校は岬の高台に作られている。ふと外を見ると、そこにあるはずの海がなかった。津波の前兆で、海の水が完全に引いていた。 まずい……。 子どもたちを大急ぎで校舎最上階の3階に集め、円陣を組ませた。校舎の壁が崩れてくる危険があったため、子どもたちの上に布団を載せ、上から教師が覆いかぶさった。 「大丈夫だ! 大丈夫だ!」 教師たちが自分たちに言い聞かせるように叫ぶ。 次の瞬間、周囲の空気が一斉に震えた。 津波が押し寄せてきた直後の状況を、阿部は子どもたちの上に覆いかぶさっていたので見ていない。 海を目にしたのは十数分後。津波は引き波へと変わり、破壊された家や車をものすごい力で海へと引き込んでいった。 「ああ、ダメだ、ダメだ……」 力なく叫ぶ同僚教員の手をじっと握りしめながら、阿部は養護教諭としてこれから何をするべきなのかを考えていた。 しばらくすると、海沿いの集落から住民たちが次々と学校に避難してきた。 その数、約420人。 津波に巻き込まれてけがをした人や、海を泳いで助かったという人もいた。保健室で服を脱がせてみると、全身が打ち身で真っ青になっている。血圧を測ると高齢者の多くが基準値を超えていた。 養護教諭としてたった一人でけが人の手当にあたらなければならなかったが、薬もなければ、湿布も足りない。最寄りの病院がある雄勝地区も壊滅しているらしく、電話もまったくつながらなかった。 周囲の状況から、南三陸で民宿を営む両親についてはあきらめることにした。職業人として、今自分の手に委ねられている子どもや住民の命を守ることに全力を尽くそうと心に誓った。