意外と知られていない…『存在と時間』が「時間」をちゃんと論じていない理由
一般人が「哲学」を学ぶのは趣味にすぎないのか
Q: では最後に、これは身もふたもない質問ですが、『存在と時間』を読む、あるいはもっと一般的に言って哲学を学ぶことは、われわれのような一般人にとって何か意味があるのでしょうか? それともそれは単なる知的好奇心、言ってみれば「趣味」のようなものに過ぎないのか。 A: われわれは生きている以上、他なるものの「存在」を負わされ、それに対応するように呼びかけられていると言いました。このような生の根本的な現実は、われわれが「趣味」のように自由に選べるものではありません。それこそ身もふたもない話ですが、われわれにはそのことを真正面から引き受けるか、ないしはそこから逃げるかという二つの選択肢しかないわけです。 前者の選択をした人にとっては、生きること自体が物事の真の「存在」を問い続ける営みそのものになるでしょう。それは基本的には、哲学書を読む、読まないとは関係のないことです。ですが、そうした人が『存在と時間』のうちに、自分と同じ問題意識が示されていることを見出し、それを読むことでによって自身の問題をよりはっきりと認識できるようになる、ということはあるかもしれない。 先ほど、生きることは孤独なことだと言いました。哲学書は、われわれがそのような孤独な生を背負っていくにあたってのよき同伴者、あるいは対話相手になってくれるのではないでしょうか。 *
轟 孝夫(防衛大学校教授)