次はパリ五輪。バドミントン・奈良岡功大が日本のエースに上り詰めるまで
才能を引き出したのは、特別扱いしない父の厳しさ
奈良岡を語るとき、父親の存在を抜きにはできない。父・浩さんは元バドミントン選手で、地元・青森のバドミントンの弱さを憂いて、浪岡ジュニアバドミントンチームを設立する。奈良岡は5歳の頃から、ここで練習を始める。 「全然、覚えていない」と彼は言うが、父親も特別扱いはしなかった。すべての選手を育てていく。そうした父の考えが強く働いたからこそ、青森は今、バドミントンで最強の県という地位を築けたのだろう。 奈良岡に話を戻したい。 「小学校3年生のABC(全国小学校ABC大会)で勝ったあたりから、ちょっとがんばろうかなと思い始めました。ケガのリスクがあるから、他のいろんな遊びをやらなくなった。そして、バドミントンのことを、ずっと考えるようになりましたね」 学校から帰ると19時から21時まで練習。奈良岡が「無限」と表現するほどの過酷さだった。一方のコートに奈良岡が入り、もう一方には3人、4人の先輩が入る。それで、試合形式の実戦的な練習が長時間続く。 この練習が終わると、自主的にネット際での攻防の練習。「キツいトレーニングのあとでも(ハードじゃないから)楽しめる」らしい。帰ったら、風呂場がトレーニング場だ。しゃもじで手首の鍛錬である。フォアで500回、バックで500回、握り方を変えて500回、手首をまっすぐにして500回。計2000回だ。 木のしゃもじには父が“己に勝つ”と記した。ところが1年も経たずに折れてしまい、以降はプラスチック製に替わる。ここまでやって、強くならないはずがない。 そして、地元の名門・浪岡中学校、浪岡高校へと進学する。ここでもコーチ、監督は父だ。全国中学選手権では1年~3年まで3連覇。高校では将来を見据え、海外を転戦するようになる。 「ただ、海外を回って、そのうえでインターハイの調整をするのは難しかった。1年のときはすべての試合に出場して肉体的に消耗して個人は2位。個人だけに出ていたら優勝したと思います。 2年のときは試合前に足首を捻挫して松葉杖状態。それで2位なのでしょうがないって感じです。ただ、3年は最後のチャンスですから、ある程度カラダを作っていて、これで優勝しなかったらおかしいという状態で臨みました」 結果はもちろん優勝。体重が増加気味だったのでランニングを毎日6km。週に2回のフリーウェイトでのトレーニング。 写真でもわかると思うが、ふくらはぎの太さが尋常ではない。「ラリー力や粘りはこれがあるおかげ」と、自身も語る。現在、奈良岡は日本大学の4年生だが、この大学を選んだのにも理由がある。 「普通は大学ではリーグ戦とかインカレを優先してほしいというのがあるんです。でも、自分は海外を転戦するつもりだから、それはできない。日大は国際試合を優先していいと言ってくれた。それで決めました」